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「アメリカにおける手塚治虫作品の受容の変遷-もうひとつの「手塚神話」の形成」‐前編‐

[椎名 ゆかり] 文化輸出品としてのマンガ-北米のマンガ事情 「アメリカにおける手塚治虫作品の受容の変遷-もうひとつの「手塚神話」の形成」‐前編<手塚治虫と海外>、<アメリカでの『鉄腕アトム』アニメ>

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<アメリカでの『鉄腕アトム』アニメ>

そもそも、手塚治虫と海外のつながりは深い。手塚がマンガ、アニメーションに限らず数々の海外の文化から影響を受けてきたことはこれまでも至るところで語られてきた。そして、手塚の手による国産第1号の30分TVアニメ番組『鉄腕アトム』が、日本放送開始から間を置かずアメリカで放送されていたことを知る人も多いだろう。

日本で『鉄腕アトム』の放送が始まったのは1963年1月。同年の9月には、アメリカのNBC系列のローカルTV局で放送が始まった。『鉄腕アトム』は、日本で毎週放送された初の30分番組のTVアニメ・シリーズというだけでなく、アメリカのテレビ局で放送された初めての日本産TV番組でもあった。ちなみに『アトム』が放送開始された1963年は、日本においてアメリカのテレビ番組が地上波で過去一番多く放送されていた時期(1週間に54番組)に当たる(6)。

アメリカでの『鉄腕アトム』テレビ放映は、手塚にとって「足が地につかないくらいうれしかった」と言う(7)。手塚の期待に反して3大ネットワークの全国放送ではなく地方のローカル局での放送であった上に、数話がまるごと削られ、いくつもの改変が加えられる等、番組に適用されたアメリカ側の放送基準は手塚を困惑させたが、『鉄腕アトム』、英名『アストロ・ボーイ(Astro Boy)』は、高い視聴率を稼ぎ、ライセンスを購入したNBCの子会社であるNBCエンタープライゼズ(NBC Enterprises)を十分に満足させるものであった。

『アストロ・ボーイ』が放映された頃は、アメリカで娯楽の中心が映画からテレビへ移行した時期にあたる。第二次大戦直後の1940年代の中盤と1960年代初頭を比較すると映画を見にいく人の数が半分以下となり、『アストロ・ボーイ』放映の前年1962年にはテレビの所有世帯が全体の90%を超えた(8)。多くのテレビ局が設立されて放映する番組が必要となった上に、大人向けであれ子供向けであれ、テレビ向けアニメーションへの需要が急激に伸び始めていた。

テレビ向けのアニメーションの制作は1950年代前半から始まり、その後続々と作られていたが、1960年から放映が開始された大人向けアニメーション番組『原始家族フリントストーン(または『強妻天国』もしくは『ソーラ、来た来た』、原題:『The Flintstones』)の大成功が、アニメーション番組の地位と需要を押し上げていたところだった。日本産の『アストロ・ボーイ』がアメリカのテレビ局に購入されたのには、テレビというメディアの躍進とそれによる番組需要の急増に加え、アニメーション番組に対する視聴者の意識の変化という背景があったのである。

これは90年代、ケーブルTVチャンネルが増加し時間枠を埋めるために多くの番組が必要とされた結果、日本のアニメ番組が購入された経緯と一部(あくまで一部だが)重なる。そして、90年代『ドラゴンボール』『美少女戦士セーラームーン』等の人気シリーズが起爆剤にもなって、その後の日本産アニメ人気を支えていくように、60年代に放映された『アストロ・ボーイ』の成功は、『アストロ・ボーイ』に続く他の日本のTVアニメ、例えば、『エイトマン』『鉄人28号』『宇宙少年ソラン』等が次々とアメリカで放映されるきっかけになった。(『アストロ・ボーイ』後5、6年経つと、アメリカにおいては一時期日本からのアニメ番組の輸入が途絶える。)

そして、何十年も経って業界に世代交代が起こり、『アストロ・ボーイ』をテレビで見て育った世代が、日本のアニメやマンガの輸入に大きな役割を果たしていくようになる。日本アニメ放送枠を作った大手ケーブルTVカトゥーン・ネットワーク、白黒の『アストロ・ボーイ』(60年代版)DVDセットを出した販売会社ライト・スタッフ・インターナショナル(Right Stuff International)、そして手塚の『鉄腕アトム』に加え他の日本のマンガも出版するダーク・ホース(Dark Horse)社のいずれも、子供の頃『アストロ・ボーイ』を見て育ったというファンが幹部にいたという。

[/アニメ!アニメ!ビズ/animeanime.biz より転載記事]
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