アニメ『平家物語』は原作とどう向き合ったのか【藤津亮太のアニメの門V 第78回】 | アニメ!アニメ!

アニメ『平家物語』は原作とどう向き合ったのか【藤津亮太のアニメの門V 第78回】

FODでは先行して全話配信されていたアニメ『平家物語』の地上波放送が始まった。本作は山田尚子監督がこれまで監督してきた青春ものではなく、歴史の大きな流れの中の個人に焦点を与えた内容となっている。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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FODでは先行して全話配信されていたアニメ『平家物語』の地上波放送が始まった。本作は山田尚子監督がこれまで監督してきた青春ものではなく、歴史の大きな流れの中の個人に焦点を与えた内容となっている。

アニメ『平家物語』は「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」として出版された、古川日出男訳の『平家物語』が原作だ。
古川日出男は、同書の前書きを「平家は成長する物語だった」と書きはじめている。多数の語り手・編集者たちが物語を増補し物語を成長させることで、さまざまな異本を生み出してきたことを古川は面白がっている。ただし一方で古川は、さまざまな増補がすべて効果的だったかといえば決してそうではないことを指摘する。そしてその上で、構成上不要と思われるものを削ることなく、その代わりに「平家が語りものであったという一点に賭け」る形で訳したという。

ではアニメ版は、この原作とどう向かい合ったか。

1クールという短い放送時間である以上、エピソードの取捨選択は避けられない。実際、本作は『平家物語』の軍記物という部分については、ポイントを抑えて映像化してはいるが、戦闘やアクションの描写には強い力点を置いていない(とはいえ平敦盛と熊谷直実の一騎打ちは数少ない個人中心のアクションシーンとして力を入れて描かれている)。むしろ“軍記”の部分は、琵琶法師の語りを絵に組み合わせ、その語りの調子によって表現しようとしている。

本作のアニメ化についての姿勢を象徴しているのはエンディングに登場する「unified perspective」という文字だ。山田監督は、これまでも作中で度々、作品のコンセプトを黒地に手描きの英字で示してきた。この「unified perspective」は、エンディングテーマのタイトルにもなっている。

「unified perspective」を訳すと「統一された視点」となる、。端的にいうならば、多数の語り手が存在した原作に対し、アニメは、びわというキャラクターを新たに設定し、彼女を「統一された視点(unified perspective)」として物語を進めたということだろう。そのため彼女は狂言回しとして、さまざまな場所に出入りし、『平家』という大河を構成する様々な登場人物と出会い。
このびわというキャラクターには明確な特徴が設定されている。びわは、その特徴的なオッドアイで、“先”を垣間見ることができるのだ。だが、そのビジョンはふいに彼女の視界に訪れるだけで、見えたところで彼女が“先”に対してできることはない。この特徴によってびわの「見るキャラクター」という要素はさらに強調されている。

そして本作にはびわ以外にも「見るキャラクター」が存在する。それが平重盛だ。

重盛もまたオッドアイで、彼は“死者”や“怨念”を見ることができる。平清盛の嫡男である重盛は、驕り高ぶる平氏にあって良心的な存在として行動する。しかし、重盛は清盛を諌めることはできない。熊野詣をした重盛は、清盛の悪心を改めるか、自らの寿命を縮めるかのどちらかを願う。こうして重盛は「見るキャラクター」から降りてしまい、その力はびわへと受け継がれる。

重盛が見ていたものが平家の運命を決定づける原因、つまり「因」であると考えれば、びわ見る“先”がその結果である「果」であろう。こうしてびわは、平家の没落にまつわる「因果」を見通すことのできるキャラクターとなる。

そしてこの「因果」の中心にいるのが、徳子である。彼女は、清盛の娘で高倉天皇に嫁ぎ、安徳天皇の母となった人物である。かくして彼女は平家の隆盛と没落という変転という運命の中で翻弄されていく。ただしそれは彼女に意思がないということを意味しない。彼女は強い意志でもって運命の渦中に踏み込んでいくように描かれている。狂言回しであるびわと徳子はある種の友情で結ばれる。それは最終的には「因果を見つめるもの」と「因果を生きるもの」という対照的な関係として示され、「因果を見つめること」が「因果を生きるもの」にとって一つの救いになっていく。

このように本作はびわを中心に、彼女と平氏の縁を作った重盛、彼女がその運命を見つめることになる徳子という3人を主要人物としてドラマを進行していく。

このように本作の「語り」は基本的にびわの視点によるものだ。これは原作の、多数の語り手を意識した姿勢を無視したかのように感じられるかもしれない。だが、そうではない。それは最終回「諸行無常」を見るとよくわかる。

地上波ではこれから放送なので詳細は省くが、物語の結末で示されるのは、様々な「声」の存在である。生き残ったもの、生き残らなかったもの、それぞれの「声」が画面に響く。このシーンの中には、原作『平家物語』では死んだことになっているが、別の歴史書には死者に列せられていないキャラクターが登場しており、“正統な歴史”に組み込まれてはいない落ち武者の伝説もまた「声」の一つとして取り上げられている。そうした「声」の数だけ、“平家物語”が存在しており、琵琶法師となったびわが語る“平家物語”は、「正史」というよりも、無数の“平家物語”の結節点として存在しているのだ。本作は、このような形で、原作が指摘したさまざまな「声」を取り込み成長していく“平家物語”のありようを映像として示した。

そして本作の最後で示されたさまざまな「声」による“平家物語”は、古川が本作の訳業を踏まえて著した小説『平家物語 犬王の巻』へも繋がっていく。こちらは正史に組み込まれなかった“平家の物語”を語ろうとする琵琶法師と猿楽師の物語の物語である。こちらもまた『犬王』として、湯浅政明監督の手でアニメーション映画として制作された(公開は2022年初夏の予定)。

このように古川が『平家物語』を訳したことが、新たな小説と新たなアニメを生み、そこにさらにアニメ映画が加わる。2022年はまずこの言葉と映像の響き合いに注目したい。

《藤津亮太》

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