簡略に説明すれば、「ポスト・メディウム論」とは、美術批評家のクレメント・グリーンバーグによる「メディウム論」【注03】を批判的に継承した概念と言える。 「ポストメディウム的状況(ポストメディウムの条件) post-medium condition」においては、1999年に『北海航行 ――ポストメディウム的状況における芸術』(Rosalind Krauss, A Voyage on the North Sea: Art in the Age of the Post-Medium Condition. New York: Thames & Hudson Inc., 1999)を著した美術批評家のロザリンド・クラウスと並んで(特に美術批評以上に、映像文化論・視覚文化論の場においてこそ、別文脈ながらも共鳴しつつポテンシャルを発揮しているという意味で)その代表的論者とされるレフ・マノヴィッチが「ニューメディア論」として論じるように――「マノヴィッチによれば、デジタル時代において個々のメディウムはコンピュータ内のデータや演算に還元され、ソフトウェア上で並置されるそれらメディウムのあいだの根源的な差異は消滅」(門脇岳史「メディウムのかなたへ――序にかえて」『表象08』「特集:ポストメディウム映像のゆくえ」月曜社、2013年、13頁)した結果――〈映画〉は(支持体と受容形態の両面において)そのメディウムとしての自律性を失い、「映像=動画」データのなかの一要素と見なされるようになる。
▼注03:各メディウムの固有性(メディウム・スペシフィシティ medium specificity)への純化を志向する美学。アニメーションを例に言いなおせば、その固有性を作画=アニメイトの快楽に求め、それをアニメの美学的本質と見なすような還元主義的パラダイムがそれに相当する。筆者が直接関わったなかでは、『アニメルカ vol.4』(2011年6月)に掲載した、いまでは『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社、2014年)で知られる、視覚文化論における日本の代表的批評家・石岡良治との対談で、こうしたフォーマリズム的(メディウム論的)なアニメ観から、ポストメディウム論的なアニメ批評への転換の理路を――そして翻ってフォーマリズムのこれからのポテンシャルを――具体的な作品分析を交えながら概観した(念のため言い添えるが、これは作画への注視を否定するものでもなければ、「アニメならでは」という評価軸を完全に無効化しようとしているわけでもない)。またこの転換の重要性が現在、刊行時以上に増してきていることを受け、対談記事からこの論点に関わるパートを切り出し『テヅカVS四コマ――『あずまんが大王』は『まんが道』を殺したか』(2015年12月)に再収録している。
そうしてマノヴィッチは、(1990年代におけるデジタル化の全面的な進展がもたらした「ニューメディア」の美学的諸相を体系的に分析する)著書(Lev Manovich, The Language of New Media, Cambridge, Mass.: The MIT Press, 2001)の第6章「映画とは何か?」において、ポストメディウム的状況における〈映画〉ならざる「映画」を次のように定式化する。