「アニメの終わり」を考える― 供給量×視聴者行動によるアニメの“コモディティ化”【藤津亮太のアニメの門V 131回】 | アニメ!アニメ!

「アニメの終わり」を考える― 供給量×視聴者行動によるアニメの“コモディティ化”【藤津亮太のアニメの門V 131回】

アニメの供給量が増え続けた結果、視聴者は「見たい作品」を探すのではなく、「見ない理由」を探すようになる? アニメにおけるコモディティ化について考える。

連載 藤津亮太のアニメの門V
注目記事

「今の視聴者は“切る”理由を探している」
そんな話を聞いたのは、もう20年以上前のことだ。深夜アニメが増え始め、視聴者の行動が変わりつつあるという文脈で語られた言葉だった。振り返ってみると、これはアニメにおけるコモディティ化という状況を的確に言い表した表現だったように思う。

コモディティ化とは、本来は独自性を持っていた製品やサービスが、さまざまな要因によって「どれも似たようなもの」に見えるようになることを指す。

アニメの供給量が増え続けた結果、視聴者は「見たい作品」を探すのではなく、「見ない理由」を探すようになった。ネガティブチェックに引っかかった作品を切り捨てても、代わりはいくらでもある。そこでは作品は固有の存在というよりも、交換可能な商品として扱われる。

もちろんアニメには「作品」と「商品」という2つの側面がある。この2つは相反するものではなく、それぞれを極とするスペクトラム(連続体)を形成している。しかし各個のクリエイティブとは無関係に、作品数が増え続けるという市場構造そのものが、アニメの「商品」としての側面を強め、その結果として自動的にコモディティ化が進展する、ということが「“切る”理由を探している」という言葉として表現されていた、と今ならわかる。

この傾向は20年経った今も変わらない。むしろ強まっている。作品数は減る気配を見せず、今なお大量のアニメが制作され続けている。これにはもちろん経済的合理性がある。だから、よほど強いブレーキ――ある意味ではハードランディングともいえる――がかからない限り、この流れは止まらないだろう。

アニメについてのコモディティ化を考えたくなったのは、「量」の問題だけではない。
先日、WEB動画広告について話を聞く機会があった。WEB動画広告では視聴者がどのタイミングで動画から離脱するかが詳細なデータとして取得できる。その結果、離脱を防ぐための対策が徹底されるようになった。すると、どのCMも似たようなタイミングで似たような仕掛けを入れるようになる。かつてのテレビCMに見られたような尖った表現は減り、似た構造の広告が増えていくことになった、と。ここで重要なのは、作り手の創造力の問題ではなく、観客の反応がこれまで以上に可視化される「WEB動画」というメディアそのものがコモディティへの圧力を持っているということだ。

これも今に始まった話ではない。視聴率が絶対的な指標だった時代のテレビ番組も、裏番組との競争を意識しながら、同じような最適化を繰り返していたはずだ。だが、それがより高い精度で、しかも広告が具体的にどれぐらい届いたか視聴者の行動まで追跡できるようになっている。
おそらくこういうメディアが持つ「コモディティ化への圧」にさらされる、その最前線にいるのが縦型ショートドラマだろう。

雑誌「The New Yorker」掲載の「Inside the World-Conquering Rise of the Micro-Drama」には、こんな記述がある。英語でショートドラマはマイクロドラマと呼ばれている。
「(引用者注:ドラマの監督の)ヤンは自分の作品を主に芸術とは捉えていなかった。マイクロドラマは商品だと彼女は語った。『まず視聴者と配信方法を考慮し、それに応じてフォーマットとクリエイティブなアプローチを調整します』。また中国のプラットフォーム・ReelShortの広報担当者は、同社の強みは視聴者データにあり、それを活用して新しいジャンルを開拓し、他地域へコンテンツを展開していると説明した」

今は配信プラットフォームを中心に見られているアニメだが、今後、こういったショートドラマ型の配信環境に組み込まれていけば、これまで以上にコモディティ化が進むだろう。また生成AIが使われるようになれば、制作コストの低下やリードタイムの短縮も図られて、供給量はさらに増加し、「プラットフォーム」と「数」の両面から、コモディティ化が進むことも考えられる。

こうして考えると、エンターテインメントにおけるコモディティ化とは、クリエイティブの姿勢や完成した作品の性質以上に、どれだけの量がどのような流通経路で届けられるかに大きく寄っていることがわかる。もう少し踏み込んでいうなら「量」と「流通経路」が、視聴者のマインドセットをコモディティの方向へと促しているのである。だからどれほど個性的な作品であっても、受け手がそれを交換可能なものとして扱えば、結果としてコモディティ化は成立する。

しばしばSNSに、エンターテインメントについて「楽しければなんでもいい」という意見が流れてくることがある。ただこの言葉は「楽しい」が意味する範囲が広すぎて、ほとんど何にも語っていないに等しい。ただ「なんでもいい」からわかるとおり、この態度はコモディティを受け入れた視聴者の代表的なもの、ともいえる。

一方、大量生産されるプログラムピクチャーの中に映画監督の個性を見出そうとしたのが「作家主義」だった、ということも思い出される。ポイントは、量産される商業映画という「コモディティ」の中に、それでもなお作品性、作家性を発見しようとした視線の存在である。この観客(評論家)の視線が、作品としての側面を浮かび上がらせたのである。

コモディティ化とは、「どこにでもある当たり前の日用品のようになってしまう」というのが本来の意味である。しかし、アニメをはじめとするエンターテインメントは、真の意味での日用品にはなれない。歯ブラシや洗剤は必要だから買われるが、アニメにはそのような必要性はない。だからコモディティ化した結果、番組間の交換可能性だけでなく、「どうせ暇つぶしなら同じでしょ」という視聴者の気持ちの変化で、アニメというジャンルが何かまったく別のものに置き換えられてしまっても問題がない。

「アニメの終わり」を考えるとき、そんなふうに「コモディティ化の果てに、アニメであることそのものに意味が求められなくなり、なくなりはしないが、誰も存在を気に留めなくなる」状態ではないかとも思う。

コモディティ化の進展は、作品と商品の間にあるスペクトラムを崩し、商品としてのみの存在感を際立てることになる。バランスを取るとするなら、「作品」として受け止める視線を鍛える必要がある。振り返れば半世紀以上前から「子供番組」と思われていたものに向けて「作品」と受け止める視線があったことが、現在のアニメを取り巻く環境の基盤となったのである。そして、それはこの20年で、ずっと消費社会に押し流されてしまった。

こういう視点でアニメが置かれている立ち位置を眺めてみるのも意味のあることだと思う。

【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。


《藤津亮太》
【注目の記事】[PR]

関連ニュース

特集