映画「この世界の片隅に」で描かれたすずの右手と世界の繋がり 藤津亮太のアニメの門V 第17回 | アニメ!アニメ!

映画「この世界の片隅に」で描かれたすずの右手と世界の繋がり 藤津亮太のアニメの門V 第17回

連載・コラム

  
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11月12日に封切りとなった『この世界の片隅に』が公開直後の予想を上回る勢いで興行成績を伸ばしている。公開前に発売されたユリイカでは、この作品を制作する手つきがアニメ史の中でどういう位置づけになるのかを書いた。公開後となるこちらでは、映画の中身に踏み込みたいと思う。

映画はこうの史代の原作に非常に忠実に作られている。だが映画のほうがストーリー全体を貫く「縦糸」を意識しして構成されており、そこから「すずという女性が自分自身を見つけ直す物語」という側面が浮かび上がるようになっている。そのためにオリジナル・シーンやセリフの変更などが行われている部分もある。
主人公のすずは、昭和19年に18歳で呉の北條家に嫁ぐ。夫となる周作は、以前から一方的にすずの存在を知っていたらしい。すずは求められるままに結婚し、北條すずとして呉での暮らしを始めることになる。

“子供時代”のまどろみからいきなり引き剥がされたすず。新しい名字となって知らない土地で嫁を演じることになる。そこにはある種の抑圧が生じるのは当然だ。そのストレスですずは円形脱毛症になる。コミカルに描かれてはいるが、描かれている状況はなかなかにシビアだ。

この展開は同じ片渕須直監督の『アリーテ姫』の展開を思い起こさせる。頭の良いアリーテ姫は、魔法使いボックスに“結婚”という名目でさらわれてしまう。ボックスはアリーテに「理想的な姫」という魔法をかけて、幽閉してししまうのだ。
もちろん周作はボックスほどわがままではないし、当時はすずよりもっとつらい境遇の人も多かっただろう。そういう意味ですずは幸運なのだ。夫も義父母も優しいし(義姉の性格はキツいが)、隣組の人々も基本的によい人だ。戦時下ではあるが、武張って思想を押し付けてくる人もすずのスケッチを見咎めた憲兵ぐらいである。
ただこれは「この作品の世界が優しくチューニングされている」というのとは少し違う。この映画の丁寧な取材に基づいて描かれた背景は、カメラのフレームの外にも世界が広がっていることを感じさせるリアリティがある。だから、この映画の登場人物が優しいのは、フレームにたまたまそういう人が入っているからにに見える。カメラが少し別のところを捉えればもっとクセのある人間がいてもおかしくない。そもそも映画(原作)のタイトルは、フレームの中に映っているのは「世界のすべて」ではなく「世界の片隅」に過ぎないと明言している。

ともあれ、そんな優しげな「片隅」にも当たり前のように抑圧はある。だから物語は、この「突然北條すずとして生きざるを得なくなった」という抑圧とすずがどう向かい合っていくかがポイントになる。

映画はそこで義姉の径子のエピソードを印象的にピックアップする。径子をすずの対照的存在として際立てることで、すずの人生を照らし出そうとしているのだ。それが端的に伝わってくるのが、映画終盤に出てくる径子とのやりとりだ。
そこで径子は、自分は夫にも先立たれ、息子は夫の実家に渡し、娘は死んでしまった。それでも自分の選んだ人生だ、と語る。それに対しすずは「周りのいいなりに、知らん家に嫁に来て、いいなりに働かされてさぞやつまらん人生だと思うわ」と。
言葉はきついが、これは径子なりにすずに共感した言葉なのだ。そして径子はすずに、居場所はここでもどこでもいいから、自分の意志で決めろ、と告げる。
この時、すずは広島市江波の実家に帰るつもりでいたが。それは妹のすみが「帰ってこない?」と誘ったことも大きい。意志を持って生きてきた径子と、流されてきたかのように見えるすず。径子はすずの意思を問うているのだ。それは単に呉から去るかどうかだけではなく、自分の人生をどう考えているのか、という問いかけでもある。
それに対してすずは「ここへおらしてもらえますか」と言う。それは、周囲に流されて抑圧されているかのように見えたすずが、自分の人生を「自分の選択である」と捉えなおしていく第一歩なのだ。

なお、原作読者なら既に知っている通り、原作では朝日遊郭の女性・白木りんに関するエピソードも多い。径子が自分の意思で生きた女ならば、りんは「貧しくて思うように生きられなかった女」で、径子と正反対の方向からやはりすずと対照になる存在なのだ。それが映画で取り上げられなかったのは、主に尺の都合であろう。そこを補完するように、クラウドファンディングのクレジットで原作にもあった「すずの(右手が)想像したりんの人生」が描かれている。

しかし、どうしてすずは径子に問われた瞬間に、自分の意思を表明することができたのか。それは右手という、すずにとって世界に触れる手段が既に失われてしまったからだ。右手を失ったことで、すずは自分の意思を言葉で表明せざるを得なくなったのだ。
すずの右手とは、まず「絵を描く右手」であった。「ぼーっとした子」であるすずは、言葉ではなく、絵を描くことで世界と触れ合っていたのだ。そこは想像と現実が入り混じり、ゆりかごのような暖かさに包まれている。
すずは右手を通じて世界を理解する。たとえば映画には、寝そべったすずが天井の木目を指でなぞる、という仕草が描かれている。広島市草津の祖父母の家で昼寝した時と北条家に嫁いだ翌朝にその仕草をしている。その仕草はまるで「見慣れない風景を指でなぞることで、自分の世界に組み入れようとしている」かのように見える。
また、里帰りをして広島市内のスケッチをするすず。セリフにもある通り、絵を描く右手を通して、別れを風景に別れを告げているのだ。そこには本質的に言葉はいらない。

また、右手と縁が深いモチーフとしてサギも登場してる。
サギは、作中ですずの子供時代を象徴する存在だ。まず幼馴染で青葉の乗組員となった水原哲が、すずのいる北條家を訪ねてくるエピソード。ここでも故郷・江波を思い出すきっかけとしてサギが登場し、すずは羽ペンでサギを描く。
その後、サギは右手を失ったすずの前に現れる。空襲が始まる中、「山を越えたら広島じゃ」とサギを追うすず。その時、すずの脳裏に浮かぶのは、まだ実家がノリの養殖をやっていた子供時代の江波の風景だ。しかもその風景は原作も映画も「すずが描いた絵」として表現されている。
つまり「絵を描く右手」は「すずが世界と繋がる手段」であると同時に「すずの子供時代」を体現してもいるのだ。ここで「お使いに出かけたすずがばけもんと出会う」というエピソードが、原作では一種のファンタジーとして表現されていたのに対し、映画はすみのために(右手で)描いた絵物語という表現になっていたことを思い出してもいい。
だから時限爆弾で右手を失うということは、単なる欠損ではなく、すずなりの世界の繋がり方が奪われたということであり、それはそのまま子供時代が消え去ってしまったということでもある。
だからすずは、改めて「世界との繋がり方」を探さなくてはいけないのである。その第一歩が「ここにおらしてください」という自分の意思を表した一言になるのだ。

そこにすずの大きな変化があることが見えると、「寝顔の周作の顔を(無言で)スケッチしたエピソード」と「『ほんとにすみません』と言いながら伝単をまるめて周作に投げつけるエピソード」が対応関係にあるのがわかる。前者では、言葉を使わずただ自分の心の中で絆を確認しているのに対し、後者は言葉を通じて周作と改めて繋がろうとしている。

では、右手は完全に消えてしまったのか。

原作も映画も終戦を迎えた8月15日に、すずが「右手の気配」を感じるシーンが描かれている。だがそのニュアンスは少し異なる。
原作のすずは玉音放送を聞いて憤り、畑に行って慟哭する。その時、すずの「この国から正義が飛び去っていく」から始まるモノローグは、当時の人の認識の枠組みを踏み越えて戦争を総括するセリフになっている。その分、そこにある種の「結論」としてのカタルシスがあるのは間違いない。右手のイメージは、そのモノローグのあとに現れる。

一方映画は、玉音放送後に戦争についてのすずなりのまとめが語られる点では同じだが、もっと生活者としてのすずに寄り添った内容になっている。だから「結論」的なカタルシスは薄い。生活者の視点で戦争を見るというのは8月15日だけのことではない。戦艦・大和の巨大さをそこで行われる炊事洗濯の量で想像するなと、映画を通じてすずの姿勢は一貫している。
むしろ映画で強調されるのは、そうして気持ちを一区切りさせた後の、黙々と白米を炊く女たちというオリジナルのシーンで、この映画が描こうとしている「今日も明日も続く生活」という部分が強調されている。そして、その白米を食べながら、死んでしまった姪の晴美を思い出した時、すずは右手の気配を感じるのだ。
(なおすずが畑で慟哭するシーンでは、原作も映画も太極旗が掲げられるカットが入る。実は映画では、太極旗を掲げる家は、それ以前のカットで家の前で兵士を送り出しているシーンの舞台として描かれている。つまり原作のセリフにあった「暴力で従えとった」に対応する要素は映画の中にも忍ばせてあるのである。そしてこれは前述したように「少しフレームを動かせば、映画が描いていない部分も見えてくる」ということでもある。)

8月15日の右手の登場のタイミングが異なっていることで、その後のすずのセリフの違いも生まれている。というより、最終的なすずの着地点を見極めた上で、右手の登場のタイミングが調整されているのである。
すずの着地点が示されるのは、刈谷さんと買い出しに行った後のセリフだ。
原作のセリフはこうだ。
「生きとろうが死んどろうが、もう会えん人がおって、ものがあって/うちしか持っとらんそれの記憶がある/うちはその記憶の器としてこの世界に在り続けるしかないんですよね」
このセリフは残されたものとしては極めて自然なものなのだが、ここではすずは完全に器というポジションになってしまっていて、そこにすずの意思を感じるのは難しい。これまで見てきた通り、映画は「すずという女性が自分自身を見つけ直す物語」として再構成されている。そこで映画では、原作のその前後のセリフを組み合わせて次のようになっている。
「晴美さんのことは笑って思い出してあげようと思います。この先、ずっとうちは笑顔の器になるんです」
ずすという器を満たすのは、まず「自分の中から生まれてくる笑顔」なのだ。この器を満たすものというモチーフもまた『アリーテ姫』と呼応している。自分が空っぽだと感じていたアリーテ姫は、自分の中に「空っぽでいたくない」という願いで満ちていることを思い出す。それによってボックスの魔法から解き放たれる。

すずも、自分の中を満たすものが何かをはっきり言葉にしたことで、世界の片隅に自分の居場所を見つけることができる。もうすずは、右手に頼らなくてもやっていけるのだ。
そして右手という子供時代に別れを告げたすずは、自分の人生がひとにいうままに生きてきただけではないという自覚をもって新たな一歩を踏み出すことになる。かくして「すずという女性が自分自身を見つけ直す物語」は終わりを迎える。

それはとても非対称な形で始まった周作との関係の新たな一歩でもある。この映画はだから2人が夫婦になっていく「長い道」を描いた作品でもあるのだ。
すずは右手に別れを告げたが、だからといって「右手でつながっていた世界」が消失してしまったわけではない。それもまた、すずの(そして私たちの)隣にふいに顔をだすのだ。相生橋で再びすれ違うばけもんのように、幻想の中ですずと肩を寄せ合うりんのように。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。  
《藤津亮太》
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