映画「海獣の子供」は何を描いているのか? “行きて帰りし物語”として読み解く【藤津亮太のアニメの門 第48回】 | アニメ!アニメ!

映画「海獣の子供」は何を描いているのか? “行きて帰りし物語”として読み解く【藤津亮太のアニメの門 第48回】

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第48回目は、アニメーション映画『海獣の子供』を題材に、本作における映画と原作マンガの本質的な違いを解説する。

連載・コラム 藤津亮太のアニメの門V
映画『海獣の子供』は、原作に勝るとも劣らない壮大なイメージをスクリーンに展開したうえで、原作ラストの「一番大切な約束は、言葉では交わさない」という大事な台詞を要石のように置いて映画を締めくくった。

こうなると、この映画については「考えるより感じろ」としか言えなくなってしまうような気もするが、ここでは言葉を手放さず、もうちょっと粘って考えてみたいと思う。
そのためには、原作の力を少し借りなくてはいけない。

全5巻の原作を2時間の映画に再構成するにあたって、当然ながらエピソードは様々に取捨選択されている。
だが一番大きな違いは、映画は「主人公・琉花(るか)のひと夏の体験」という枠組みを採用したところにある。
だから原作の第3巻、第4巻あたりで語られた、過去のいきさつを含む、琉花が絡まないエピソードなどもバッサリと落とされている。

だが、こうしたエピソードを刈り込んだことそのものはそれほど重要ではない。ここで大事なのは、「主人公・琉花(るか)のひと夏の体験」という枠組みを作ることで、原作の中から「行きて帰りし物語」の構造を抽出することとつながっていた、という点だ。

「行きて帰りし物語」は、なにか欠けている主人公が異世界へ足を踏み入れた後、無事にもとの世界へと帰還し、結果として自らの欠けていたものを獲得するという構造の物語だ。
この構造は神話や昔話、その影響下に成立した伝統的ファンタジーなどに見ることができる。

ここで改めて本作のあらすじを確認しておこう。

自分の気持ちを言葉にするのが苦手な中学生の琉花は、夏休み初日に部活でチームメイトと問題を起こしてしまう。もう部活にこなくていいと言われれてしまう琉花。
母とも折り合いが悪い琉花は、別居中の父が働く水族館へと向かう。そこで琉花が出会ったのは、ジュゴンに育てられたという不思議な少年“海”だった。

海と親しくなった琉花は、一緒に“人魂”が空から降ってくる様子を見る。“人魂”と呼ばれたその隕石こそ、これから始まる“祭り”の前触れだった。
そして琉花は、海と海の兄“空”に導かれるように、この“祭り”へと巻き込まれていくことになる。

“祭り”とは何か。具体的に説明がされているわけではないが、およそ以下の通りであると考えられる。

宇宙からやってきた“隕石”はいわば精子であり、海ある惑星はそれをきっかけとして“生命”そのものを生み出し、そしてその“生命”を放出するという、宇宙規模の“出産”であると考えられる。

そしてその“出産”は、神話や伝説に伝えられる“特別な人間”の媒介によって成立してきた。
「海は産み親. 人は乳房. 天は遊び場」という言葉は、そのことを指しており、今回の“祭り”は、海と空の媒介によって成立するのであった。

この“祭り”で琉花が果たすのは、(映像を見る限り)空と海を繋ぐ役割であり、同時に“ただの人”として、その軌跡を見届けることだった。“ただの人”が“祭り”を見届けなければ、“祭り”は未来へと語り継がれることはない。
こうして琉花は陸という“此岸”から海や“祭り”という“彼岸”へと足を踏み入れ、そして再び陸へとまた戻ってくる。

琉花が彼岸から帰還する結果、別居中だった両親の仲は元に戻り、冒頭でケンカ状態になったチームメイトとは友好的に視線を見交わすことができるようになる。
琉花の両親がよりを戻す展開は原作にもあるが、映画は、2人が揃って“祭り”から戻ってきた琉花を助け出すシーンを作って、家族の再生を強調している。
また映画ラストのチームメイトとの再会は、冒頭のトラブルと対応するように作られたオリジナルのシーンである。

彼岸への旅は琉花自身とその環境にも変化をもたらしたのだ。このように映画は、琉花が戻ってきた“陸”の部分を丁寧に描いているのだ。

それはラストシーンでより明確になる。原作の最終回は、琉花らしい大人がヨットに乗りながら、さまざまなキャラクターのその後を語る様子を描いている。
この琉花らしい大人は、海と空、そして“祭り”に惹かれていた、体の半分を海に預けているデデやジムといったキャラクターと同種の存在だ。

だが、映画はその前のエピソード――1年後に琉花に弟が生まれる――を描いてそこで終わる。
映画で、琉花が最後に登場するカットは、波打ち際を歩くロングショットだ。画面の上半分は空であり、画面の奥には海が広がる。
この時の琉花は、海と空に抱かれて、なおかつぎりぎりで陸地=此岸であるところの波打ち際に立っている。
それが、この映画がこの時の琉花に用意した彼女の立ち位置なのだ。

しかも琉花のそんな立ち位置を強調するのが、琉花が歌う歌だ。
それは母が自分の子供時代に歌ってくれた子守唄。これも映画オリジナルの要素だ。

子守唄は陸で紡がれてきた人間の営みの証(琉花の母が海女だったという原作の設定も、映画ではことさらに語られない)。海=彼岸に半身を預けているデデが言葉のある「歌」ではなく口琴を奏でていること、クジラたちが言葉を使わずに“ソング”でコミュニケーションをとっていることと対照をなして、琉花があくまでも陸に立っている存在であることを強調している。

映画はこのように「琉花の生きて帰りし物語」という、あえて狭いフレームを用意し、その狭い枠組みの中から、壮大な“祭り”を覗くように制作された。
その結果、映画は極小=琉花と極大=祭りを鮮やかに対比させる作品として完成した。

彼岸へと遠く視線を送る原作と、あくまで陸から足を離さずそこへの帰還を目指す映画。
その立脚点の違いが、原作と映画という2つの『海獣の子供』の本質的な違いになっている。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。最新著書は『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
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