「さよならの朝に約束の花をかざろう」“母”ではなく、“娘”の物語として読み解いて見えるものとは 藤津亮太のアニメの門V 第32回 | アニメ!アニメ!

「さよならの朝に約束の花をかざろう」“母”ではなく、“娘”の物語として読み解いて見えるものとは 藤津亮太のアニメの門V 第32回

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第32回目は、岡田麿里監督のアニメーション映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』について、“人間”、“国家”、“神話”の3つの時間軸を切り口にその物語を分析。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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※この原稿は、『さよならの朝に約束の花をかざろう』の重要な部分に触れています。予めご了承下さい。



『さよならの朝に約束の花をかざろう』の中には複数の時間が流れている。まず、人間の時間。そしてその上にある国家の時間。そして、さらにその上に神話の時間が重ねられている。

いにしえの時代から存在する竜レナトや長命種イオルフは神話の時間に属する。彼らはしかし、滅びゆく運命にあり、長い歴史を追えて、静かにフェイドアウトしようとしている。これは、おそらく数百年から1000年に届くようなスケールの時間である。
その下に流れる国家の時間を体現しているのが大国メザーテ。レナトを使役し、権勢を誇ったメザーテだが、最終的に諸国の攻撃を受けて滅びてしまう。こちらは数十年から数百年のスケールだろう。
そして、そんな大きな時間と重なり合いながら、100年に満たないヒトの時間が流れている。神話と国家の時間という大河の中で、人々は生まれ、出会い、別れ、そして死んでいくのだ。

本作は、ファンタジーというジャンルの特性を生かして、この3つの時間を重ね合わせ、その中で人間の人生を浮き上がらせようとした作品だ。
そして、この作品のキーワードである「母親」は、3つの時間をブリッジする役割を果たしている。

主人公のマキアたちイオルフは、人里離れた里に暮らし、そこでヒビオルといわれる織物を織って暮らしている。イオルフは、このヒビオルに自分たちの日々の出来事もまた織り込んでおり、半透明に白く伸びていくヒビオルは、イオルフの生きている神話の時間そのものといってもよい。
この里に、メザーテが攻め入ってくる。メザーテは、レナトが絶滅しそうになったため、新たに国家を権威付ける存在としてイオルフの女を奪い、王子の妻に迎えようと考えたのである。この時、マキアの友達レイリアが連れされ、やがて王子の子供を生むことになる。
一方、マキアは混乱の中、なんとか生き延びたものの、里から出て生きざるを得なくなる。そこで出会ったのが、山賊に襲われた流れ者の村で、ただひとり生き残った赤ん坊。マキアは、この赤ん坊を育てることを決意する。こうしてマキアは、赤ん坊エリアルとともに時間を過ごすことになる。

レイリアは国家の時間の中で王子の子を生み、国家を権威付ける「母」の役割を押し付けられる。だが産んだのは男ではなく娘で、しかもイオルフの特徴も持たなかった。レイリアはメザーテが期待した「母」の役割を果たせなかったのである。
一方、マキアはエリアルを育てるため、人間の時間の中で「母」であろうとする。だがエリアルが思春期になり、血が繋がらず若いままのマキアに思慕の念を抱くようになると二人の関係は変わらざるを得なくなる。エリアルはマキアのもとを離れていくことになる。
神話の時間を生きていた2人が、国家の時間/ヒトの時間に囚われ、そこでヒト/国家に翻弄されるのである。

映画が始まって早々に、イオルフの長老であるラシーヌがマキアに語りかけるシーンがある。

「外の世界で出会いに触れたなら、誰も愛してはいけない。愛すれば本当のひとりになってしまう」

その意味がにわかにはわかりかねるマキアに長はさらに重ねる。

「それが私たち、別れの一族に課せられた運命なんだよ」

長命種である以上、ヒトの中で生きていこうと思ったら奇異の目で見られ、特別なものとして扱われるのことは避けられない。しかも、ヒトは自分たちより必ず先に死んでしまう。だからこそヒトと出会ってはいけないのだ、と。
ある意味、マキアとレイリアの辿った人生は、この長が語ったとおりの“不幸”であるともいえる。だが、それは彼女たちがいにしえの時代から続く楽園から放り出された結果、自分の人生とは何かをつかもうとあがいた結果でもある。

この映画はマキアとレイリアが子供を持つことから、“母”をめぐる物語としてまず読まれるだろう。しかし、長老の言葉が映画のアヴァンタイトルに置かれたことを考えると、これは長老=親のもとを離れてしまった“娘”の物語としても読むことができる。そして、長の言葉を守ることができなかったふたりの娘は、しかしその苦労の中で、“親離れ”を果たすのである。

たとえばマキアは、エリアルとの“子離れ”を体験する。そこでマキアは「今の私を織り上げてくれたのはエリアルなんだ」と口にする。それはつまり長老の言葉の通り生きていたら、私は私にならなかった、ということだ。マキアはこのようにして長の言葉を超えて、“親離れ”したのである。だからこそ映画はマキアの「長老様、私はエリアルを愛してよかったと思っています。愛してよかったと……」というモノローグで締めくくられることになるのだ。

一方、レイリアはラスト間際、長い間合うことが許されなかった娘メドメルと、塔の上で偶然出会う。しかし、レイリアはメドメルを振り切るように塔から飛び降り、マキアを乗せて飛んできたレナトへと飛び移る。
レイリアはメドメルに向かって叫ぶ。「さようなら。私のことは忘れて。私も忘れるわ」。その後、マキアはレイリアに「大丈夫。絶対に忘れないから」という。レイリアはそれを受けて「苦しくて、痛くて、でもこんなに美しい世界。忘られるはずがない」と涙をこぼす。このレイリアの言葉もまた、長の言葉を超えて彼女が生きた証になっている。

望むと望まざるとにかかわらず、親という結節点でもって人間の時間にコミットした結果、ふたりはこのように“親離れ”を果たした。
しかし、二人の幼馴染であったクリムは、イオルフのあるべき姿に囚われすぎて、“親離れ”ができなかった。失われた時間を取り戻すことに固執するクリムの悲劇は、そういう種類のものと考えることができる。

いっぽう、視点を変えて子供サイドから見てみると、子供たちもまた“親離れ”をしているのである。
たとえばエリアルは「今の自分ではマキアを守れない」とマキアのもとを出てしまう。後にマキアと再会するが、その時、エリアルは既に結婚していて妻のディタは出産している。この構図そのものがエリアルが“親離れ”を果たしたことを雄弁に語っている。
またメドメルのほうも、飛び去ったレイリアを見送った後に「お母様ってとてもおきれいな方なのね」とつぶやく。メドメルにとっては、潔く宙へと舞うことができるレイリアの姿こそが、自分の心の中の空洞を埋めてくれるものだったのだろう。母から何かもらうものがあるとしたら、私はもうこれで十分だ、ということだ。

“親離れ”とは、子供の成長という時間経過の結果として起きることだ。つまりヒトの時間の象徴ともいえる。
かくしてヒトと国家の時間とともに生きたマキアとレイリアは、そこで“親離れ”を果たし、ふたたび神話の時間へと還っていく。
そこからは、この映画で描かれた3つの時間の重なり合いとキャラクターの人生について考える、ヒト=観客の時間が始まるのである。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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