「ミッドナイト・ゴスペル」はなぜ“見る幻覚剤”と呼ばれるのか? そしてその言葉から脱した最終回【藤津亮太のアニメの門V 第59回】 | アニメ!アニメ!

「ミッドナイト・ゴスペル」はなぜ“見る幻覚剤”と呼ばれるのか? そしてその言葉から脱した最終回【藤津亮太のアニメの門V 第59回】

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第59回目は、Netflixで配信中のアニメ『ミッドナイト・ゴスペル』より、本作が“見る瞑想”“見る幻覚剤”と称される視聴感覚をもたらす理由を解説します。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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Netflixで全8話が配信中の『ミッドナイト・ゴスペル』は、非常に特殊な作品だ。

主人公はクロマティック・リボンと呼ばれる世界に仮想世界農家として暮らすクランシー。クランシーは、無数にある平行世界へとアバターを使ってダイブし、その世界で誰かのインタビューを行う。
クランシーは、そのインタビューをデータストリーミングで宇宙全体に配信する“スペースキャスター”なのだ。

この設定だけ聞くと、各話完結の冒険もののようにも聞こえるかもしれない。
しかし本作が特殊なのは、クランシーの行うインタビューが、実際に行われたものだ、というところだ。

本作の監督は『アドベンチャー・タイム』のペンデルトン・ウォード。コメディアンのダンカン・トラッセルがポッドキャストで行っているインタビューに興味を持ったウォードが、そのインタビューから派生したアニメが本作なのだ。

インタビューに登場するのは、薬物依存症のスペシャリストからトラッセル本人の母まで幅広く、いずれの話題も死や心のあり方などスピリチュアルな方向に向かって深まっていく。

たとえば第1話「王の味」では、トラッセル演じるクランシーは、マッチョな体(ビーチ・ボディ)のアバターで、ゾンビだらけの滅びかけている世界に降臨する。
インタビューする相手は“眼鏡の男”で、この世界の大統領だ。この大統領とクランシーの会話が、依存症のスペシャリストである医師、ドリュー・ピンスキーに対するトラッセルのインタビューで出来上がっているのである。

かくしてゾンビがホワイトハウスに迫る危機の中、2人はドラッグとその精神に与える影響について会話を交わしていく(とはいえ大統領の台詞にはゾンビに関係する内容もあり、単にインタビューそのままを使っているわけでもなさそうだ)。

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この作品は3つのレイヤーで構成されている。
まず一番下に、ベースとなっているポッドキャストのインタビューがある。次にクランシーが入り込む仮想世界がある。そして最後に、クランシーが普段暮らしている仮想農家としての世界がある。そしてこの3つのレイヤーは基本的にバラバラに存在している。
仮想世界を訪れたクランシーのアバターが傷ついたとしても、仮想農家の世界(現実)に戻ってくれば身体が傷ついていることはない。

第2話「士官とオオカミ」では、クランシーは角の生えた鹿イヌ(作家のアン・ラモット)にインタビューするが、クランシーのアバターと鹿イヌは工場で挽き肉状になっても会話を続け、さらにそこに新キャラクター(スピリチュアリストのラグー・マーカス)も加わってくる。
だがたとえ挽き肉になっても角笛を吹けば、クランシーは“現実”へと戻ることができる。

またインタビューの音声と仮想世界の内容も基本的に関係しない。
例えば第3話「家を持たない狩人」の舞台は、都市が水没した世界。クランシーはそこで、頭の水槽に魚が入っている人物と会って魔術、禅などについてインタビューをする(実際のインタビューイは冤罪で刑務所に服役していたダミアン・エコールズ、ダミアン自身がオカルトに詳しい)。

だがその間に、そのキャラクターは、海底に沈んだ建物の中に入っていき、引き出しの中からネコ(彼の船の乗組員はネコなのである)を助け出す。
このように本作の会話と映像は、微妙に乖離している。

このように独立しているように見える3つのレイヤーだが、それぞれにわずかな接点もある。
例えば、クランシーは仮想世界から仮想農家の世界へと必ず靴を持って帰ってくる。いわばその世界の証のようなものだ。
またアニメ仮想世界で」インタビューの会話が進む時は、キャラクターが口パクをする。これはその言葉がキャラクターの言葉として発せられているということだ。

さらにインタビューの言葉だけでなく、ストーリーを進行させるための会話もある。
例えば第4話「自らの終わりに惑わされ」は、女戦士トゥルーディが恋人を取り返すための戦いというストーリーがある。
瞑想グループの主催者で心理学者であるトゥルーディ・グッドマンのインタビューは、このストーリーの中の合間に展開される(インタビューの合間にストーリーが進行するといってもいい)。

本作では作品を構成する要素がみな独立してバラバラにも係わらず、それがわずかな一点で接点を持つことで、絶妙に調和している。
そしてバラバラであるからこそ、インタビューイたちが語るそれぞれの哲学にリアリティが生まれている。


日本のアニメは「アニメは絵である」ということを忘れてもらい、作品世界の存在を信じてもらう方向に進化してきた。
そのために描かれる世界も、登場人物も“表層的”であることを避けて、視覚的にも作劇的にも“立体的”であることに主眼が置かれている。

だが『ミッドナイト・ゴスペル』は、それぞれの要素がみな“表層的”なのである。
まず絵柄がカートゥーンの記号化された表現だから“現実”である仮想農家の世界からして、リアリティは薄い。

さらに、平行世界にいけば、現実をカリカチュアしたのではない、さらに奇妙な姿をしたキャラクターもたくさん登場する。
そしてインタビューの内容も、インタビューイの名前こそ画面に示されるが、本人たちの肩書やバックボーンからは切り離され、発言そのもの、言葉そのものだけが使われている。
インタビューイたちについて知識の少ない日本人からみると、さらにことの言葉だけが切り出されている感覚は強くなる。

本作の“深い”という印象は、この表層的な要素がバラバラに重ね合わされているところから生まれている。
カートゥーン・タッチのキャラクターが、瞑想や解脱を通じて人生哲学を解く。その言葉は、キャラクターのバックボーンから生まれたものではないからそこにはギャップがある。
しかし、そのギャップからしか生まれない“深さ”の感覚がある。

リアリスティックに描かれているキャラクターが、そのバックボーンに基づいて哲学を語る。観客はそれを自然に受け入れても、驚きは感じない。
なぜならそのようにそのキャラクターとエピソードができているからだ。

だが本作の場合は、そのような納得の回路は整備されていない。
表層的なキャラクターと表層な言葉の間に“人生の真実”が突然示されるのである。この「突然示される“人生の真実”」のインパクトこそ、本作が“見る瞑想”とか“見る幻覚剤”と呼ばれる本作の視聴感覚を生み出しているものだ。
そして、このインパクトを“啓示”と感じるか、“トリップ”と感じるかは人それぞれだ。

しかし、このような本作の中で最終回である第8話「銀のねずみ」だけは特別だ。
最終回のゲストは、デニーン・フェンディグ。クランシー役のトラッセルの母親だ。だから最終回だけはずっとクランシーはダンカンと呼ばれている。

インタビューは、フェンディグの語るラッセルの出産から始まり、子供時代の思い出を重ねていく。
「母と息子」の関係がベースにあるため、誰もがキャラクターのバックボーンを想像しやすく、キャラクターも母親が子供を抱きかかえる姿からスタートするので、言葉と映像のギャップが少ない。そこにこれまでの本作には薄かった“リアリティ”(生っぽさ)が生まれている。

母と息子は、人はいかに生きるべきかというテーマと瞑想について言葉を重ね、ついに台詞の中で、フェンディグがステージ4のガンを患っていることが明かされる。
自分がいかに死と向かい合っているかを語るフェンディグ。実際にフェンディグはこの取材の3週間後にこの世を去ったという。

親子関係の中に現れる人間の誕生と死。この誰もが他人事でないリアリティのある事象は、それまでの7話分とは異なったインパクトで迫ってくる。
この最終回で本作は、それまでの“見る瞑想”とか“見る幻覚剤”という言葉から脱する。

そして、アニメーションの持つ力を正面から発揮し、人生の深淵と生命の大きさを描き出して、シリーズを締めくくるのである。
序盤だけで本作を理解したつもりにならないほうがいい。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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