「トラペジウム」アイドルはどのように“誕生”し、“存在”していくのか? 【藤津亮太のアニメの門V 107回】 2ページ目 | アニメ!アニメ!

「トラペジウム」アイドルはどのように“誕生”し、“存在”していくのか? 【藤津亮太のアニメの門V 107回】

元・乃木坂46の高山一実が雑誌「ダ・ヴィンチ」で連載した長編小説『トラペジウム』。現役アイドルが綴った「アイドルを目指す少女の青春物語」が、『ぼっち・ざ・ろっく!』『SPY×FAMILY』などを手掛けるスタジオ・CloverWorksによってアニメ映画化を果たした。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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どうして空中分解してしまうかといえば、東以外の3人はもともと「アイドルになりたい子」ではないからだ。しかも、実質的にリーダーである東は「モチベーションの確認や維持」「目的の共有」といったチームをまとめるためのマネジメントを行っているわけでもない。彼女はもとから、友情という型の中に3人をはめて、それで行動を共にしてもらおうと考えていたわけで、自分の「アイドルになりたい」という夢を共有しようともしていない。なぜなら東の中で「アイドルは素晴らしいものである」ということがあまりに自明だからだ。また東が3人といっしょにアイドルになりたいのか――3人のほうが東より人気がある――、最終的に自分だけが夢を達成できればいいのか――などが曖昧なまま状況は進んでいく。  

本当は大人がそのグループのマネジメントにかかわるべきだろうが、本作は東の失敗を描く物語なので、大人はテイよくフレーム外におしやられている。だから、失敗は当然の結末といえる。  
また本作におけるアイドルが「不在の中心」だから、この東の「アイドルは素晴らしいものだ」という主張は、観客には空回りしたものとしてしか見えてこない。  

実はこの「不在の中心」に、実態を与えられられる可能性のあるポイントが映画の中には2つあった。  

ひとつは、車椅子の少女サチ。彼女は亀井が参加するボランティア活動を通じて、東たちと出会うことになった。学園祭のシーンでは、「10年後の私」をテーマにしたコスプレ写真館で、サチは東にアイドルの衣装を着てほしいと頼む。それはサチが、ミニスカートだと自分の義足が見えてしまうことを気にした結果でもあるが、その流れで東はサチとアイドルになる約束をする。うれしそうなサチ。  

東はもともと、学園祭にサチが現れたことで、自分の予定が変更になってしまったことに腹を立てていた。しかし、彼女こそ「アイドルは周囲を笑顔にする存在」を裏付けてくれる存在だったのだ。  
そして東西南北(仮)が空中分解してしまったあと、偶然にも4人が再会するきっかけとなったのも、サチが唯一の楽曲をラジオにリクエストしたからだった。ここでも彼女は、本作で抽象的にしか描かれていない“ファン”という存在に、実体を与えている。  

けれど彼女が、それ以上に作中でフィーチャーされることはない。物語のラスト、数年が経過したあと、4人の再会が描かれるとき、高校時代にサチを交えて撮ったコスプレ写真が登場する。しかし東は、あの頃の夢が叶ったということを噛み締めても、そこにサチがいたことには思い至らない。  

もうひとつは、東と小学校時代に同級生だった亀井のエピソードだ。東西南北(仮)が解散したあと、東は亀井に会って、昔の自分のことを尋ねる。亀井は、小学生のとき、「いじめられた自分に東だけが普通に話かけてくれた」ということを語り、「自分にとって東はヒーローだった、自分は東ちゃんのファン1号だった」と言うのである。

映画の終盤にも近いこのシーンで、東の人間的な魅力に言及されるが、映画をここまで見てきた観客なら想像がつくとおり、これは亀井の“美しい誤解”である。東は、一匹狼気質で合理的でない行動を嫌っただけだったのだろうと想像がつく。このディスコミュニケーションから生まれる尊敬という非対称性は間違いなく“アイドル”という存在と深いところで繋がっている。しかし、このエピソードもまた東や“アイドル”を深堀りするほどにはならず通り過ぎてしまう。  


《藤津亮太》
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