『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』を見て「続編」について考えた。求められる反復と、そこに意味を与えるための差異。『まどか☆マギカ』シリーズは、その点についてかなり大胆なアプローチをとったシリーズとなっている。
※以下の本文にて、本テーマの特性上、作品未視聴の方にとっては“ネタバレ”に触れる記述を含みます。読み進める際はご注意ください。
本題に入る前に、本作のインプレッションを記しておこう。これまで以上に刺激の強い映像の連続で構成された映画だ。平面的オブジェクトで埋め尽くされる画面。ケレン味のあるキャラクターのポーズ。カットの連続性をあえて無視して配置される小道具やキャラクター。キャラクターという強力なフックがあるとはいえ、素朴なリアリズムから遠い映像表現の釣瓶打ちに、これだけの観客が集まり、集中して鑑賞している。そのことに、ある種の感慨を覚えさえした。
個性的な新キャラクターたちは、キャストの絶妙なコントラストが楽しい。『ワルプルギスの廻天』というタイトルのとおりの出来事がちゃんと作中に用意されており、「そうか、そういう切り口か」と納得するところも多々あった。
本作は前作『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』と一対になる物語だ。タイトルも『[新編]ワルプルギスの廻天』であると考えるとしっくりくる。だから『叛逆の物語』を見てから――あるいは思い出してから――のほうが、細部の情報についていきやすい。
その関係を考えると、今さら言ってもしょうがないが、『[新編]叛逆の物語』が2023年ぐらいに公開され、今年『ワルプルギスの廻天』が公開される、ぐらいの間隔で見られたのなら、もっと幸福に受け入れられたのではないかとは思う。「TVシリーズ&総集編」と「頭に[新編]を冠した2作」という関係で受け取れて、観客の頭の整理もつきやすかっただろう(ただこういう見え方は、リアルタイムで鑑賞してきた人間が感じることで、10年後に配信で見る人間にはまったく関係のない感慨なのである)。
ただ、このあたりの疑問については、パンフレットのインタビューを読むと、そんなに都合よく物事は進まないことが記されていて納得してしまう。『[新編]叛逆の物語』から『ワルプルギスの廻天』までに時間が空いたのは必然だった。そこには間違いなく、作品づくりの根本的な難しさが存在していた。
では「続編」とはどのような存在なのか。ここでは3部作など、最初から長い物語を分割して語ろうとする作品は一旦除外する。『スター・ウォーズ』のシークエル・トリロジー(第7部~第9部)のようにリレー小説のような状態になってしまった“3部作”もあるが、そこもまた別問題ということにしておこう。
ここで「続編」として考えるのは、一度完結した物語を再始動させ、継続させるエピソードのことだ。かつての映画における「続編」の多くは、積極的に「反復」を選んだ。『007』シリーズしかり、『男はつらいよ』シリーズしかり。圧倒的な魅力を持つ主人公を作品の枠組みとして、その中に入れる「事件」や「ヒロイン」などを入れ替えていけば、「続編」を作れるというわけである。
主人公が枠組みとして機能するには、作中でその主人公の心理的状況が大きく変化しないことが必要になる。作中の葛藤を生む状況が解消されたり、子供が大人になったりするなど、不可逆な変化をしてしまう物語は「続編」が作りづらい。もし「続編」を成立させるなら、新たな課題や状況を設定する必要があるが、これがなかなか難しいのだ。このあたり『トイ・ストーリー』シリーズは、常にキャラクターと紐づいた「課題」を考え出して、「反復」よりも、しっかり「差異」が目立つ形になっているところに驚かされる。
アニメでは『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの「続編」の作り方が「反復」を基調としていた。「ヤマト」という圧倒的な存在感の主役メカを軸に、地球や宇宙の平和(愛の世界)を脅かす敵との戦いを繰り返し描くシリーズ。注目したいのは、一応『ヤマト』の作中世界でも設定上の時間が経過しているということだ。第1作の舞台は2199年で、その後も「続編」ごとに年代を刻んでいた。
この流れの結果、『完結編』のときには2205年以降となり、第1作で18歳だった主人公・古代進は20代半ばに達することになった。しかし制作サイドは、感情豊かな若者として古代を描きたいと考え、あえて年代設定を2203年とし、時系列を前に引き戻した。これは当然、2205年を舞台にした直前作とコンフリクトを起こしてしまうのだが、キャラクターの年齢“感”のほうが、設定年代より重要だったということだろう。なおこの年代の矛盾はのちに再調整され、現在の公式設定ではコンフリクトは起きないようになっている。
実写であれば良くも悪くもキャストの加齢がそのまま作品に影響する。しかしアニメは、「反復」を中心にすると、ともすれば「時間」の問題が後景に退きがちである。
これについては『機動戦士Zガンダム』が、明確に「作者の都合で登場人物が年齢を重ねないのはおかしい」と作中時間を進め、主人公も入れ替え、テーマも前作とは別のものを設定して「続編」とするスタイルを打ち出し、結果的にシリーズが「年代記的サーガ」として継続していく礎となった。
「時間を経過させることで、世界観を共有しながら描くべき物語を再設定する」というアプローチは、「反復」のスタイルに則っているようで、「差異」を最大化する戦略といえる。
一方で「ジャンルを変えてしまう」という大胆なアプローチもある。これは、キャラクターや世界観が強固であればこそ可能なものだ。例えば『エイリアン』がホラーだったのに対し、『エイリアン2』は戦争ものだ。『カーズ』は田舎で自分を取り戻す話であるが、『カーズ2』はコミカルなスパイ・アクションになっている(そういう意味で『カーズ』の正統な続編は『カーズ3』なのである)。
だいぶ長くなってしまったが、このようなすでにある「続編」へのアプローチを確認した上で『まどか☆マギカ』シリーズをみると、「続編」の作り方が非常に特殊なものであることがわかる。
『まどか☆マギカ』のTVシリーズは、最終的にまどかが「円環の理」という新たな宇宙の法則となり、あらゆる場所・あらゆる時代で、絶望して魔女になる直前の魔法少女を救済する、という形でラストを迎えた。
そして『[新編]叛逆の物語』は、その後の世界を描く。物語の舞台は、キュゥべえによって外界から隔離されたほむらのソウルジェムの内部に生まれた、魔女の結界である。そこでは、ほむらが望んだ偽りの理想世界が形づくられていた。やがて魔法少女たちはその偽りに気づき、結界を破り、円環の理となったまどかがほむらを迎えに現れる。ところがほむらは、円環の理から「鹿目まどかという人間だった部分」を引き離し、自らを悪魔と名乗って宇宙を新たな法則のもとに作り直す。映画は、ほむらが再編された世界を支配する側に立ったところで終わる。
『[新編]叛逆の物語』がすごいのは、感情的な連続性――ほむらのまどかへの執着――はTVシリーズから一貫しているにもかかわらず、もともと彼女たちが生活していた「基底現実」を一顧だにせず、「ニセモノの世界」と「作り直された世界」を描いて、作中で現実として表現されているものも、実は超越的な存在によっていかようにも生成・書き換え可能なものとして示してしまったことにある。
当然ながら「世界」が可塑的なものとして描かれる以上、「時間」というものも曖昧になる。そこで、まどかたちはずっと中学生として生き続ける――というより「存在しつづける」といったほうがより正確だろう――ことになる。
『まどか☆マギカ』では、「世界を自分の望む幸福な形にする」という欲望が「続編」を起動する動機になっている。だから新たに作られた世界は、それまであった世界を包含するように、その外側に「増築」されていく。
『ワルプルギスの廻天』は、『[新編]叛逆の物語』に対するさらなる「増築」である。その過程で、まどかの人間の部分を円環の理へと再び戻そうとする勢力と、悪魔として世界に君臨するほむらとの対立が描かれる。ここで顕になるのは、この世界観では「誰が世界を書き換えるポジションに就くことができるのか」が重要ということだ。
『Zガンダム』が年代記として語られる「ガンダム」シリーズの礎となったように、『[新編]叛逆の物語』は「世界を書き換える地位を巡る闘争」としての礎であり、『ワルプルギスの廻天』はその第2ターンにあたる。冒頭で語ったように、この2作が連続して見られたほうが幸福だったというのは、このような理由による。
そして『ワルプルギスの廻天』でもまた世界は書き換えられた。さらに、この増築の過程で、世界の書き換えの影響を受けない外部にある、「名塚底根」という「すべての魔女の始まりの場所」も加わり、今後の展開を予感させる描写で映画は終わる。続編は十分ありえるであろう締めくくりだ。
『ワルプルギスの廻天』の続きがあるとしたら、やはり「なにものかが今の世界を書き換えようとする」ことが軸にならざるを得ないのだろうか。素朴な反復でもなく、年代記的な時間軸上の変化でもなく、「世界を自分の望む幸福な形にする」ための闘争の反復を通じた、外側への世界の拡張。それが本シリーズにおける「続編」を生み出していくエネルギーとなっている。
ただそのためには相当なアイデアが必要だし(それだけに時間がかかる)、やればやるほど「基底現実」から遠くなり、なんでもありのインフレが起きて、物語の切迫感も薄れていく危険性もある。
そこにとどまらないために、新たな要素を導入するとしたら、なにがありえるか。そこにあえて「時間」という要素をとり入れるのはおもしろいかもしれない。まどかたち魔法少女に「成熟」の概念を持ち込み、停止した時間から解放する。いうまでもなく魔法少女における成熟という問題は、1980年代に導入されて以来、大きなトピックである。
『まどか☆マギカ』の個性的な「続編」へのアプローチ。その挑戦の行先が今後も続くのか、続かないのか。続かなくても、TVから『ワルプルギスの廻天』に至る流れは十分ユニークなシリーズであることは変わりない。
【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。




