劇場版「RE:cycle of the PENGUINDRUM」TVシリーズから“一歩”踏み込んだ物語【藤津亮太のアニメの門V 第85回】 | アニメ!アニメ!

劇場版「RE:cycle of the PENGUINDRUM」TVシリーズから“一歩”踏み込んだ物語【藤津亮太のアニメの門V 第85回】

※この原稿は『輪るピングドラム』のTVシリーズと劇場版の重要なシーンについて触れています。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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※この原稿は『輪るピングドラム』のTVシリーズと劇場版の重要なシーンについて触れています。

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』は、TVシリーズに新作を加えた、いわゆる“総集編映画”だ。4月29日から『[前編]君の列車は生存戦略』が公開され、『[後編]僕は君を愛してる』は7月22日公開で現在も上映中だ。
本作の特徴は、TVシリーズを包含するように新たなストーリーが加えられている構成だ。この構成によって2011年にTVシリーズで描いた内容が、2022年の観客に向けて装いも新たに語られることになった。

ここでは、総集編部分で語られた『ピングドラム』の物語を再度解釈しつつ、劇場版新作部分について考えたい。
『ピングドラム』の物語は、クライマックスで登場する「運命の乗り換えのための呪文」である「運命の果実を一緒に食べよう」へと収れんしていく。これがすべての始まりの言葉であり、物語を終幕へと導く言葉である。どうしてこの言葉が重要なのか。

『ピングドラム』は、物語が大きく3つの要素で出来上がっている。
1つ目は高倉家3兄妹の物語。血の繋がらない冠葉、晶馬、陽毬の3人は、16年前(作中で1995年)にテロを起こした高倉剣山・千江美夫妻の子供である。妹の陽毬が難病で余命わずかな中、冠葉と晶馬は彼女を救うために、捜索を命じられた「ピングドラム」を求めて奔走する。

2つ目は荻野目苹果と多蕗桂樹、時籠ゆりの三角関係。苹果は、16年前のテロで姉の桃果を亡くしており、彼女の日記を寸分違わず実行することで、姉が好きだった多蕗と自分が結ばれると考えている。それは離婚した両親を再び取り戻すために、彼女には必要な儀式だった。一方で多蕗もゆりも、子供時代に桃果に救われた経験を持っており、桃果の喪失は2人の心にも暗い影を落としていた。

そして3つ目は、16年前のテロの首謀者であったと語る渡瀬眞悧と桃果の戦い。誰にも知られることのない戦いの末、刺し違えた2人は、それぞれ別の姿となり、16年後の2011年に再び相まみえることとなる。

この3つの幹に、いくつかのエピソードが絡んで物語は進行する。また1つ目の「高倉3兄妹」と2つ目の「桃果に残された者たち」は、苹果がブリッジする形で交錯して語られていく。また3つ目の「桃果vs眞悧」は本作の根本的な世界のあり方を象徴するものとして、1つ目、2つ目の物語に影響を与えていく。

では『ピングドラム』の根底に存在する、眞悧と桃果の対立の構図はどのようなものか。
眞悧は主張する。人間は「箱」の中に生きていて、そこで自分が何者かも忘れ、大切なものを奪われてしまう。「箱」に出口はなく、人は孤独なままである。だから「箱を、人を、世界を」壊すしかないのだと。

眞悧が語っているのは、世界や社会の諸要素により人間がその本質を見失う状態に閉じ込められているという「疎外」の問題だ。本作における「何者にもなれないお前たち」とは、この疎外の状態にある人間――それは詰まるところ現代社会にいる視聴者を含む人々である――を指している。眞悧は、「疎外」を乗り越えることができないから、世界そのものを破壊すべきと主張している。

桃果は16年前、その破壊をとめるために「運命の乗り換え」により、眞悧をこの世界からはじき出そうとしたが失敗した。被害者が出る破壊を止めるのはよいとして、では桃果は、誰もが囚われているこの「疎外」の問題をどう考えていたのか。

眞悧により2つのペンギン帽子に封印されてしまった桃果。16年後に、その片方の帽子を被った陽毬に“憑依”したような状態で彼女は顕現する(この状態をプリンセス・オブ・ザ・クリスタルという)。ここでプリンセスは高倉冠葉と晶馬に「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。ピングドラムを探せ」という台詞を発し、この「ピングドラム」が物語を牽引していくことになる。この「ピングドラム」こそが、桃果の「疎外」に対する答えである。

「ピングドラム」とは一体何なのか。
物語のクライマックスで、10年前の出来事としてケージに閉じ込められた冠葉と晶馬の姿が描かれる。このケージがあるのはどんな場所なのか、何も描かれていない黒い背景は説明しない。このケージは眞悧がいうところの「箱」だろう。テロ組織ピングフォースがテロ後に名前を変改めた「企鵝の会」、その幹部の子供という「箱」に2人は閉じ込められている。2人はこのまま寝たら二度と目を覚まさないかもしれない、というところまで衰弱している。

そんなときに冠葉が自分のケージの中に、リンゴをひとつ見つける。一方、晶馬は自分のケージにリンゴを見つけることはできない。そこで晶馬は、自分が運命に選ばれなかったことを悟る。だが、冠葉はケージから手を伸ばし、半分に割ったリンゴを晶馬に手渡す。「運命の果実を一緒に食べよう」の言葉とともに。

こうして晶馬は冠葉に救われた。そしてそんな晶馬は、後日、ネグレクトされ「子供ブロイラー」で“透明な存在”にされそうになった陽毬を救う。このときにやはり晶馬は「運命の果実を一緒に食べよう」と口にする。こうして3人は「運命の果実」に結ばれて兄妹になったのだ。

物語の終盤、冠葉は、瀕死の陽毬を救うために眞悧と取引をして、テロの実行犯となる。そんな冠葉を晶馬と陽毬は救おうとする。
晶馬は自分の胸から赤い炎の球を取り出す。そしてそれを受け取った陽毬が、「これがピングドラムだよ」という言葉とともに、冠葉にそれを手渡す。炎の球は半分が消えて、10年前のあの日、冠葉が晶馬に手渡したリンゴの形になる。

運命の果実=リンゴ=ピングドラム。それを一緒に分け合うために、隣のケージへと手を伸ばすこと。「箱」から出ることができない、「何者にもなれないお前たち」が、その瞬間、「何者かに“なる”」のである。そして、運命の果実を手にしたものが、手を伸ばしそれを分け合うことでピングドラムは“輪(まわ)って”いく。

眞悧の「箱の中から出ることはできない」という宣言はひとつの呪いだ。だからそれに抗うには、「箱」の中から必死に手を伸ばすしかない。だから「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉は、眞悧を退ける言葉として機能するのだ。
ここで重要なのは、眞悧も桃果も根本的に人間が「何者にもなれないお前たち」であることを前提にしているという点だ。そしてだからこそ、桃果の戦いは圧倒的にビハインドである。

眞悧はそんな自分たちを生んだ世界そのものを憎むのだと語る。一方、桃果が示すのは、個人がそこから変われる可能性であって、疎外を前提にした「氷の世界」(作中での表現)を変えることではない。そんなことで世界は変わらない、と否定をすることは容易いほど、ささやかなものだ。このように、桃果の示す道を歩むことは険しく、眞悧の扇動に身を任せるほうが、はるかに容易いという非対称性が、2人の対立の中にはある。そして実際、眞悧は滅びることはない。一時の退場をするだけである。

この眞悧と桃果の戦いの構図は、『ピングドラム』が参照する村上春樹の短編「かえるくん、東京を救う」(『神の子どもたちはみな踊る』所収)を想起させる。
「かえるくん、東京を救う」でかえるくんが戦うのは、地下で東京に地震を起こそうというみみずくんだ。かえるくんはみみずくんをこう説明する。

「みみずくんがその暗い頭の中で何を考えているのか、それは誰にもわからないのです。(略)実際の話、彼は何も考えていないのだと僕は推測します。彼はただ、遠くからやってくる響きやふるえを身体に感じとり、ひとつひとつ吸収し、蓄積しているだけなのだと思います。そしてそれらの多くは何かしらの化学作用によって、憎しみというかたちに置き換えられます」

眞悧も一個の人間像と考えるより、さまざまな人から発せられた「疎外のルサンチマン」を吸収し、蓄積して、テロという形に変換してしまう存在と考えるとわかりやすい。映画では、第36次南極環境防衛隊に参加していたとか、医師の助手をしていたという人間的デティールがカットされたため、象徴的な意味合いが強くなっている。

一方、かえるくんの戦いのパートナーに選ばれるのが、信用金庫に勤める片桐という男性だ。詳細は省くが、彼は「今ここで殺されたところで、誰も困らない。というか、片桐自身、とくに困りもしない」というような、「何者にもなれないお前たち」の代表のような人間だ。

そんな片桐に対してかえるくんはいう。
「片桐さんにやってほしいのは、まっすぐな勇気を分け与えてくれることです」
こうした台詞から、かえるくんが語っていることは、「箱」の中から手を伸ばして、かえるくんに勇気という“ピングドラム”を分け与えてほしいと語っているように解釈もできる。そしてそのことが、彼自身を救うのだとかえるくんは語る。
「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです」

地震とテロという違いはあれど、1995年が露わにした“現代”を語る時に、「何者にもなれないお前」を中心に置かざるを得ないという点で2作は、タイトル引用以上の関係にあると考えることができる。

眞悧と桃果の戦いの中で、もうひとつ考えておかなくてはならないのが、どうして苹果が「運命の乗り換え」の言葉を言う役になったのか、ということだ。
苹果の一番大きな役割は、高倉3兄妹という「加害者の子供たち」にも、「桃果に取り残された2人」にも、感情面で深くコミットしたところにある。

彼女自身も妹として「桃果に取り残された」人間のひとりではある。彼女の誕生と桃果の死は同じ日の出来事なので、彼女自身はゆりや多蕗のように生前の桃果を知っているわけではない。彼女は自分が桃果の代わりになれば、離婚した両親も元に戻ってくれると思い、必死に桃果の日記の内容を自分で再現しようとしていたが、物語の中盤でその呪縛からは解き放たれ、一番フラットな立場の登場人物になっている。「何者にもなれない=自分でしかない」ことを知った上で、加害者の子供の苦しさと残されたもの悲しさをともに知る人間だから、苹果が「運命の乗り換え」を宣言する役割になったのであろう。

桃果は完全に「聖人」として描かれていたが、極めて人間的なエピソードが多かった苹果が宣言したことで、「運命の乗り換え」を宣言できるのは、彼女のような聖人だけではない、という意味合いが加わったのだ。そして同時に、表層だけを真似た「ニセの桃果」になろうとしていた苹果が、自分と桃果は違う人間だと受け入れたからこそ、「本物の桃果」に一番接近することになった、という展開も感動的である。

こうして「運命の乗り換え」が起こる。この時、冠葉は身を削って陽毬を「乗り換え先」へと送り届ける。晶馬は、運命の乗り換えの引き換えとして、全身を焼かれる苹果から、その炎を引き受け、苹果を救う。この2人の捨身は、「テロリストの子供ということの罰」という不条理を、むしろ積極的に引き受け、それによって逆に人を救うという行為として表現されている。

以上、長々と総集編部分で描かれたドラマがなぜそうなっているかを改めて整理してみた。これを踏まえると、新作部分が、TVシリーズで描いたことからさらに一歩踏み込んで『ピングドラム』の物語を描いたことがわかる。

新作部分の舞台となるのは、水族館の地下深くにある「中央図書館 そらの孔分室」。ここは第9話で陽毬が訪れ、そこの司書と名乗る眞悧と初めて出会った場所である。だが、映画では第9話とレイアウトがすべて左右反転しており、司書として現れるのは、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの姿をした桃果である。TV最終回に登場した、冠葉と晶馬によく似た少年は、この「そらの孔分室」を訪れ、自分たちが何者で何をしたかを、図書館の本を読んで知っていく。

この新作部分で描かれるのは、記憶も失った2人の子供が、「かつて自分は何者だったのか」を知っていく物語だ。そこではTVシリーズで主人公たちを閉じ込めていた「箱」がキャンセルされていく。この呪いを弾き返していく力強さが、新作部分の魅力だ。

例えば再び「君たちは何者にもなれない。罪人の子供だから」という呪いの言葉が登場する。しかし、自分が何者だったかを知った2人は、もうその言葉に怯むことはない。なぜなら、彼らは「運命の乗り換え」前の自分たちが、ピングドラムによって救われたことを、図書館の本によって知っているからだ。それを知ったなら、「箱」そのものを恐れることはない。そして2人は、もうひとつの運命を生きる陽毬へとメッセージを送り、それがTVシリーズで描かれた最終回と見事にリンクする。

また、終盤では「きっと何者かになれるお前たちに告げる」とTVシリーズの時の、プリンセスの言葉が反転した言葉も登場する。これもまたピングドラムがこの世界にあると既にわかっているからの反転である。

もちろんこの世界に「箱」があることも、疎外によるルサンチマンがあることも、否定はされない。ただその上で、ピングドラムがあることの強さが語られるのである。
それはTV最終回のサブタイトルが「愛してる」だったのに対し、後編のサブタイトルが「僕は君を愛してる」と、より力強い宣言になっていることとも対応している。そして「愛してる」の台詞は本編でも幾度も繰り返されるのであった。

「箱」に入って疎外されていても、誰かと何かを分かち合おうとすることはできる。それが疎外の中で、自分を見失わずにすむ大きな手段である。「愛する」のではなく、「愛を分かち合いたいという思い。この「分かち合う」というところに、本作の愛=ピングドラムが潜んでいる。そしてその部分を強調した劇場版は、まさに2022年の映画になっていた。
それは同時に、こうして愛=ピングドラムを必要とする社会は、果たして幸福な社会なのだろうか、という思いもまた呼び起こすのだった。


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