トーキング・アニマルの仕掛けを巧みに使った「ズートピア」 藤津亮太のアニメの門V 第11回 | アニメ!アニメ!

トーキング・アニマルの仕掛けを巧みに使った「ズートピア」 藤津亮太のアニメの門V 第11回

連載・コラム

『ズートピア』はタイトルの通り、進化したさまざまな動物が共存する都市ズートピアを舞台に展開する一種の警察ものだ。同作ではズートピアで暮らす動物たちを、動物本来の習性を踏まえつつ、擬人化した存在として描いている。
だから作中でズボンは「文明化した動物の証し」だし、逆にズボンをはかない動物本来の姿はギャグとして織り込まれている。また、デザイン的には、主人公ジュディ(ウサギ)とニック(キツネ)をはじめほとんどのキャラクターに眉毛が与えられていることも、彼らをより人間的に見せている。

擬人化された(言葉を喋ることも多い)動物キャラクターは、トーキング・アニマルあるいはファニー・アニマルと呼ばれ、アメリカのアニメーションの特徴のひとつである。日本にもそういうタイプの作品は存在するが、アメリカほどは多くない。
細馬宏通の『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか―アニメーションの表現史―』(新潮選書)は終章「アニメーション界と現実界」の中で、「動物問題」という項をたてて、どうしてアメリカのアニメーションは動物が数多く登場するのか、という問題について考えている。

同書は「動物は万人受けするから」「人間界と隔絶したファンタジーを作りたいから」という発想を検討した後、ワーナー作品でさまざまな傑作をものにしたチャック・ジョーンズの以下の言葉を引用する。
「動物を人間らしく描くほうが人間を人間らしく描くよりもずっと簡単なんだ。わたしたちにとって人間はあまりにも近しい。わたし たちは人間にいつも囲まれてるから、バカは バカに、 マヌケはマヌケにしか見えない。アニメーターにとってこうしたステレオタイプを避けることが重要だったんだ。ちょうど イソップやキップリングやラ・フォンテーヌ といった擬人化を用いた幾多の作家がそうだったように。」(『Chuck Amuck: The Life and Times of an Animated Cartoonist』)

マヌケをマヌケとして描くと、マヌケ以外の要素が抜け落ちて記号的になる。だが、たとえばマヌケをロバに仮託して描くと、ロバの諸要素(外観や仕草などの特徴)が、記号的でないニュアンスを加えて「リアリティをもったマヌケ」が出来上がる、というのがチャック・ジョーンズの主張というわけだ。
この「リアリティをもった記号性」はアニメの本質でもある。アニメの観客は記号を見ながらも、リアリティをよすがにして、記号の向こう側に“本物”を見ているのだ。だからこそ、単純な線の集まりで描かれたキャラクターも、自分と同じ“人間”だと感じることができるのである。

『ズートピア』の面白さは、このトーキング・アニマルという題材を、キャラクターのレベルとストーリーのレベルで、それぞれに使いこなしているところにある。しかもキャラクターのレベルとストーリーのレベルでは、トーキング・アニマルというスタイルに対する姿勢は、極論をいえば正反対といっていいほど違うのだ。

まずキャラクターのレベルを見てみよう。ここ行われているのは、伝統的トーキング・アニマルの批評的な描き直しだ。見方によっては、伝統的なトーキング・アニマルのあり方に否定的ともいえるだろう。

たとえばズートピア初のウサギの警察官となったジュディ、ここでは「ウサギ=かわいいあるいは弱い」という一般的なイメージが、ジュディのキャラクターと結び付けられている。一方、オスギツネのニックは詐欺師だ。これはイソップ物語などにでてくるキツネのずるがしこいイメージ、肉食動物ゆえの暴力的なイメージを踏襲している。しかし2人はそうしたカリカチュアされたイメージ通りの人間ではなく、むしろそうした周囲のイメージによって抑圧されてきた存在なのだ。

本作の監督のひとりであるジャレド・ブッシュは取材に「先入観」という言葉を使って、次のように答えている。
「『自分も他の人に対して先入観を持っているのかもしれない』と観客に感じてほしかった。だから本作では、悪役だけに偏見を抱かせるのではなく、主人公を含む全てのキャラクターに偏見を抱かせることが、とても重要だったね。」(T-SITE(http://top.tsite.jp/news/cinema/i/28566791/)に掲載された、プロデューサーのクラーク・スペンサーと脚本・共同監督のジャレド・ブッシュのロングインタビューより)

カリカチュアとして使われることが多かったトーキング・アニマルというスタイルを逆手にとって、観客も含め誰もが差別や偏見の種となりうる「先入観」を持っていることをあぶり出しているのだ。トーキング・アニマルという単純化にあらがうことで本作のキャラクタードラマは出来上がっているのだ。
ところが、ストーリーの全体像へと目を移すと、これはちょっと変わってくる。『ズートピア』という物語は、トーキング・アニマルという仕掛けなしには成立しなかった。
本作はズートピアで起きていた連続失踪事件の捜査が縦軸となる。そして、最終的なクライマックスは、ズートピアの中に隠然と存在していた最大の対立--「少数派の捕食者(強者)=肉食動物」と「多数派の被捕食者(弱者)=草食動物」のヘゲモニー争い--を巡って展開する。

本作の随所に、アメリカで実際にある偏見や差別の実例が盛り込まれているという事実は既にあちこちで指摘されている通り。だからこの「肉食と草食の対立」から、人種や民族の衝突を想起した人も多いだろう。
でも大事なのは、ここで描かれた「肉食と草食の対立」と現実にある人種や民族の対立とは大きく異なるという点である。「肉食動物と草食動物の共存」は、進化した動物たちが得た文明の証でもあることが自明の前提となっており、その中で起こる「肉食と草食の対立」。それは歴史的経緯があり、経済的背景があり、その中で生まれた報復の連鎖があるような現実の人種や民族の対立とはまったく異なる。はるかにズートピアでの対立は単純化されている。

だが、本作はそれでよいのだ。
ここで描かれるべきはカリカチュアされた対立であって、リアルな現実ではない。「ああ、こういうことって人間の世界にもありそうだな」と作品から現実へ補助線が引ける程度の説得力(リアリティ)さえあれば、それで十分なのだ。そして、観客はそのリアリティの向こう側に、「互いが抑圧しあうことのない理想の社会」を夢見ることができる。単純化したからこそ、誰もがうなづくことのできるシンプルで普遍的な理想を映画の“結論”として差し出せる。

単純化することで理想を語りうるという点で、本作はまさしく寓話である。もちろん単純化故に示すことができた結論だから、それを夢と笑う人もでてくるだろう。でも、単純な夢だからこそ、誰もが夢を見られるのだ。そしてその夢を寓話として、さまざまな状況に合わせて草食動物・肉食動物に何があてはまるか、その時々で読み替えていくことができる。
トーキング・アニマルという仕掛けを批評的に読み替えたキャラクター描写。逆にトーキング・アニマルという単純化の仕掛けを積極的に使うことで本作は寓話としての強度を手に入れたストーリー。本作は、この二通りのトーキング・アニマルの使い方が二輪となって支えているのだ。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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