「劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD」キャラクターの“存在感”へのアプローチ【藤津亮太のアニメの門V 第95回】 | アニメ!アニメ!

「劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD」キャラクターの“存在感”へのアプローチ【藤津亮太のアニメの門V 第95回】

『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』が5月20日より公開中。本作のストイックなカメラの取り扱いと、そこから醸されるキャラクターのリアリティについて考えた。  

連載 藤津亮太のアニメの門V
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『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD』を見て、ストイックなカメラの取り扱いと、そこから醸されるキャラクターのリアリティについて考えた。  

『劇場版アイドリッシュセブン』は劇映画ではなく、アイドルたちのライブ映像という設えの作品だ。実際のライブと同じように、2日公演の体裁で<DAY1>と<DAY2>という2バージョンが同時公開されている。  

本作は、大きく分類すると、3種類のカメラポジションがよく使われている。ひとつめが、ステージの床面とだいたい同じ高さからあおり気味にステージ狙うアングル。もうひとつが、クレーンを使っていると思しきカメラで、これは俯瞰を中心に前後左右にかなり自在に動く。そして3つ目がが、ステージの両サイドのアングルから望遠中心でパフォーマンスをとらえているカメラ。

ひとつひとつ見ていくと、カメラポジションは各シーンごとに適切な位置に置き換わっているが、大きく分ければ、この3つが中心といえる。そしてここに加えて、クレーンよりさらに高いドローンのようなカメラと、ステージ上で広角気味にキャラクターに寄るカメラという、2つの視点があり、こちらは要所要所で挿入されることで、映像にメリハリを与える役割を果たしている。  

ポイントは、これらのカメラポジションが「ライブ中継にありそうな位置」で成り立っていることだ。さらにいうと本来の中継だったらありそうな“全体を押さえておく”ショットが少なく、それぞれのパフォーマンスがダイナミックに伝わってくるアングルが中心に選ばれている。本作のカメラの扱いがストイックに感じられるのは、このような縛りをかなり厳格に守っているように感じられるからだ。本作はPVでもなく、歌番組の中継でもない、ライブという空間そのものを撮ろうとしている。  

ある空間をリアリティをもって描く方法として「カメラが置けない位置にはカメラを置かない」というものがある。例えば室内を撮影する時に、壁や天井を取り外さないと撮れないようなアングルは使わない。もし、そんなアングルを使ってしまうと、室内の広がりがウソっぽく感じられてしまうようになる。
もちろんこれはあくまで原則で、意図的に破られることもままあるが、こうした原則を意識することで、映し出された空間にリアリティが宿ることになる。日本のアニメのリアリティはそうして培われてきた。  
そして「空間」にリアリティが宿れば、そこに存在するキャラクターにもリアリティが宿る。リアリティを喚起するアプローチは、いくつもあるが、本作はまずもって、このカメラで空間を切り取るアプローチによってそこに迫ろうとしたのだ。  

こうしたアプローチが徹底できたのは、バーチャル・カメラを使用したこととも無縁ではないだろう。記事にはこのように書かれている。
「1曲あたり100台以上のバーチャルカメラを設置するなど、15日間の撮影期間で約4500カットという膨大な動画・カメラデータを「ジャンヌ・ダルク」から書き出し、アングル素材として編集・調整していきました。」(記事:カヤックアキバスタジオ、大ヒット中の「劇場版アイドリッシュセブン BEYOND THE PERIOD」に技術協力!プリビズ制作の裏側をちょこっと公開) 

本作は、アニマティクス(ラフなモデルで大雑把な動きをつけた映像)の段階で、「ジャンヌ・ダルク」というヴァーチャル・カメラ・システムを使い、さまざまなアングルから撮影を行い、それを編集することで、制作のベースにしたという。本作は、従来のアニメのワークフローであれば、絵コンテに相当するであろう工程がなく、3DCGによるヴァーチャル空間で行った“撮影”データをもとに編集で流れが作られるという、むしろ実写映画に近いともいえるフローで構成が作られたのである。  

このような本作だから、劇映画の演出のロジックとは大きく異なる。劇映画の演出は「同一化」がひとつの狙いである。
「映画館の中では、カメラが観客の目を映画の筋と画面の中へ引きずりこむ。我々はすべてのものを内部から(原文は「内部から」に傍点)眺めているような気持ちになり、映画の中の諸人物に取り囲まれているような気持ちになる。映画の中の人物は、何を感じているのかを我々に語る必要はない。なぜなら、我々は彼らが見るものを見、彼らが見る通りそれを見るからである。(略)このような心理的な好意を我々は同一化(原文は「同一化」に傍点)と呼ぶ」 (『映画の理論』著:ベラ・バラージュ、訳:佐々木一基 學藝書林)  

こうした同一化をもたらす、一番一般的な手法はカメラの切り返しだ。「登場人物のアップ」と「登場人物が見ているもの」を、カメラの向きを切り替え撮影し編集する。そこで観客は、登場人物の視線を共有し、同一化が促される。当然ながら劇映画ではない本作では、このような切り返しは1カ所でしか使われていない。  

例えば、同じキャラクターたちのライブを扱った別作品、『劇場版 うたの☆プリンスさまっ♪ マジLOVEキングダム』『同  マジLOVEスターリッシュツアーズ』のほうが、この「同一化」に積極的なアプローチを選んでいる。観客がキャラクターたちと空間を共有する感覚のある仕上がりになっている。そういう意味で、演出は「劇映画」に軸足が置かれている。『劇場版アイドリッシュセブン』が「キャラクターの佇まいに存在感を感じる」映画だとすれば、『劇場版 うたの☆プリンスさまっ♪』は「キャラクターとの距離の近さを楽しむ」映画といえる。
これはどっちがどうということはなく、「架空のキャラクターによるライブ映像」というお題に対するアプローチの違いであり、こうした様々な挑戦や試みが、今後も増えていくであろう「ライブ映像もの」の可能性を広げることに繋がる。

さらに広げて考えると、『劇場版アイドリッシュセブン』のような「ライブ中継」のスタイルの演出の延長線上には、「キャラクターによる演劇やコント」といった表現も射程に入ってくるはずだ。これらは「同一化」に軸足を置いた演出の中で表現するのは難しい。しかしストイックなカメラワークを徹底すれば、かなりリアリティをもって描けるはずだ。『劇場版アイドリッシュセブン』のストイックなカメラワークは、逆に3DCGとヴァーチャルカメラによる、さらなるキャラクター・エンターテインメントの可能性も示唆しているのではないだろうか。


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