「ガンダム 閃光のハサウェイ」圧倒的な“市街戦シーン”に込められた映像&ドラマ的ポイントとは?【藤津亮太のアニメの門V 第70回】 | アニメ!アニメ!

「ガンダム 閃光のハサウェイ」圧倒的な“市街戦シーン”に込められた映像&ドラマ的ポイントとは?【藤津亮太のアニメの門V 第70回】

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第70回目は、2021年6月11日公開の『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』より、本作の市街戦を中心に映像的ポイントやドラマを考察。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』は中盤のダバオ空襲とその後の市街戦のシーンが圧倒的だ。そこに映像としてもドラマとしても本作について語るべきポイントが凝縮されている。

『閃光のハサウェイ』の主人公ハサウェイ・ノアは、マフティーという反地球連邦組織のリーダーであり、彼自身もマフティー・ナビーユ・エリンという別名を名乗って活動している。
マフティーは、全人類が地球を脱して宇宙で暮らすべきだという主張を掲げている。
現在、地球に住むのは地球連邦の政府高官や富裕層など特権階級と、彼らが暮らすための社会生活を維持するための労働者が中心。
マフティーは、地球環境の保護を名目に人類の大半をスペースコロニーへと移民させつつも、“例外的な事例”として政府高官が地球に住み続けることを問題視し、政府高官を狙ったテロなどを実行している。

このマフティーの思想と行動は、作中時間で10年ほど前に反乱を起こした、シャア・アズナブルのそれを受け継ぐものだ。
シャアは、人類全部が宇宙で暮らせるようにするため、小惑星アクシズを地球に落下させ、地球を寒冷化させる作戦を実行しようとしたのだった。
ハサウェイは、このシャアの反乱の時はティーンエイジャーで、父親が地球連邦軍の軍人であることもあり、連邦軍の立場から至近距離でシャアの反乱に立ち会うことになった。
そんなハサウェイが、当時とは正反対ともいえる政治的ポジションについているという“ねじれ”が本作のポイントである。

中盤のダバオ空襲は、ハイジャックに巻き込まれ、連邦軍ダバオ基地の新任司令ケネス・スレッグなどと行動をともにすることになってしまったハサウェイを、マフティーの仲間が回収しようとする作戦だ。
深夜にモビルスーツ・メッサーを出撃させ、富裕層の宿泊するホテルを砲撃することで混乱を誘い、それに乗じてハサウェイを回収しようというものである。

この市街戦が印象的なポイントは2つある。
まずひとつはモビルスーツの見せ方。戦闘に巻き込まれた人間の視線から見たモビルスーツのいる状況が随所にあり、モビルスーツの巨大な存在感を際立てている。
そこで描かれた、20mを超えるモビルスーツは巨人そのもので、しかもはるか上方にあるその顔は夜の闇に溶けていて、モノアイあるいはバイザー型の“目”の光だけが光って見える。その姿はまるで一つ目巨人サイクロプスのようだ。

そしてこのような巨人同士が戦い合う結果生じる周囲への影響を、本作はとても丁寧に描いた。
機体がぶつかれば火花が散るし、ビームの粒子が飛び散れば周囲に被害が及ぶし、公園では火災も発生する。ビルの上に着地すれば、ビルを崩壊させることにもなる。巨人同士の戦いで周囲に何が起こるかのかが、解像度高く画面の中で展開される。

この見せ方は、過去の表現を現代に繋ぎアップデートした『機動戦士ガンダムUC』、モビルスーツのデザインそのものから新たなアプローチを採用した『機動戦士ガンダムサンダーボルト』とも異なっており、作品世界を改めて新鮮なものとして見せている。

このような“巨人たち”の戦いの描写がある上で、さらにそれよりも大型でハイスペックなモビルスーツ・ペーネロペーがさらに特別な存在として描かれているところもおもしろい。
まるで鳴き声のような飛行音(これは実は原作通り)や、起動中に各所が光る様子などからして、ペーネロペーは明らかに“怪獣”のような異質な存在として描かれている。


なお本作の市街戦を見て『機動戦士ガンダムF91』の序盤で描かれた市街戦を思い出したファンも多いのではないだろうか。
『F91』もモビルスーツの襲撃により逃げ惑う人々が丁寧に描かれており、校舎屋上に墜落したモビルスーツが建物を壊し、中の人間が犠牲になるカットが描かれたり、排莢された巨大な薬莢が頭に当たって死ぬ人物が描かれるなど、“巨人”の戦闘が周囲にどのような影響を及ぼすかにフォーカスして演出されている。
この連想は間違ってはいない。しかしこれは単に『閃光のハサウェイ』が『F91』を意識し継承しているという単純な話でもない。

そもそも富野由悠季監督による『閃光のハサウェイ』の原作小説の出版は『F91』公開に先立つ1989年から1990年にかけて。そして今回の映画の市街戦は、この小説が描いた段取りや細部を基本的に踏まえて描写されている。
もちろん小説ではあっさりとひとこと、あるいは1行で説明されていたものを、映像表現として説得力あるものとして作り出し提示はしているが、根本は原作にあるのである。

ここからは推測も混ざるが、富野監督は小説を描く時に、アニメではなかなかできなかった戦闘シーンの表現を「小説ならできる」ということで盛り込んだのではないだろうか。
そして、その時に思いついたイマジネーションのいくつかを、その後、改めてモビルスーツのいる世界を描き出しだすために『F91』へと盛り込んだのではないだろうか。

ちなみに本作の村瀬修功監督は、アニメーターとしてその『F91』の序盤の戦闘シーンに関わっている。つまりこの市街戦は、『F91』から一旦小説『閃光のハサウェイ』に“先祖返り”した上で、2020年代の制作技術によって表現されたもの、というわけだ。

ここまではあくまで“ガンダム世界の表現”の範疇だが、市街戦を印象的にしているもうふたつめのポイントは、光の使い方そのものだ。
市街戦は深夜の場面だから、暗くローコントラストな画面が基調となる。そこに炎などのオレンジの光が要所要所で差し込まれることになる。

例えば、モビルスーツは巨大だから全体は暗く沈んでいるが、炎の照り返しやマズルフラッシュ、ビームサーベルの光などがある時に、その一部分が明るく照らされるだけ。
このような光源との関係性によって、巨大感に加え、そのものが空間に存在している実感が強調される。そしてなによりローコントラストな画面の中に光が現れ、その範囲が大きくなったり小さくなったりする様が、視覚的な刺激として心地よいのである。

もちろん光はドラマの演出上でも大きな役割を果たしている。
ホテルから脱出して市街戦の中を逃げ惑うハサウェイとヒロインのギギ。ビルのピロティに逃げ込んだ時、ギギは戦闘を目の当たりにしてショック状態である。そんなギギをハサウェイは後ろから抱きかかえている。この時、画面はローコントラストで暗い。

その後、2人がピロティからさらに公園へと逃げ出すと、その目前でモビルスーツが激しく戦っている。ここでまるで花火のように火花やビームが飛び散り、それまでは画面の部分にとどまっていたオレンジ色の光が画面全体を包み込む。
人間が触れればおそらくは生きてはいられないであろう光。その光はハサウェイの瞳の中にも写り込んでいる。そしてこの状況で互いの命を確かめ合うように2人は向かい合って抱き合い、相手の体をまさぐる。

警戒しながらもギギに惹かれていたハサウェイは、この瞬間、ギギと一番深いところで結びついたような感覚を得たのではないか。一瞬が永遠でもあるような瞬間。
この「言葉にならない感覚」が明確にハサウェイの中に宿ったということが、本作の始まりであり、画面全体を覆うオレンジの光はそれを告げるものでもあるのだ。

ここまで主に映像について見てきたが、この市街戦はドラマの上でも大きなポイントになっている。それはハサウェイがさまざまな矛盾を抱え込み、そこに引き裂かれている人間ということが端的に表現されているからだ。

ハサウェイはマフティーとしてテロを仕掛ける側である。その彼がマフティーの仕掛けた市街戦の中、ギギの「ひどいよ、こんなの怖い」というつぶやきに対して「ああ、そうだ本当にひどい」と答えるのである。
ハサウェイの近くには彼を回収するためにコンタクトを試みているマフティーの仲間であるエメラルダがいる。ギギを捨てて、仲間の下へといけば済む話だが、ハサウェイはそれができない。ハサウェイはつまり、マフティーの理想という理念(=頭)と、ハサウェイという感情(=心)に引き裂かれているのである。

そしてこの理念と感情もさらに分裂しているのである。
まず、マフティーの理念は地球の一般大衆には受け入れられているとは言い難く、ハサウェイの中には「これは正しい理念である」という考えと「大衆に支持されない改革とは」という2つの考え入りが乱れている。
そして感情のほうも「ギギという少女は勘が良くて危険である」という気持ちと、「その勘の良さの向こうに見える純粋さに惹かれる」という気持ちに引き裂かれている。
またギギへの気持ちは、かつて好きだったクェス・パラヤにまつわる記憶を呼び起こして、彼はさらに「現在」と「過去」にも引き裂かれることになる。

ダバオ空襲の少し前から、空襲と市街戦を経て、ギギの姿にクェスの姿がフラッシュバックするシーンまでのおよそ15分余りの間に、こうしたハサウェイの心情が凝縮して描かれている。このハサウェイの引き裂かれた魂のあり方は、もちろん小説を踏襲したものではある。
だが、映画は小説より具体的な肌触りをもって、その心理が伝わってくる。

それだけに小説のラストを知っていると、この「引き裂かれた魂」の行く末が本作でこの後、どのように描かれていくのか、さらに興味がわくのだった。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』、『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』などがある。ある。最新著書は『アニメと戦争』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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