ガンダム0083、∀、王立宇宙軍…アニメ界のレジェンドプロデューサー回顧録! 植田益朗×渡辺 繁【インタビュー】 | アニメ!アニメ!

ガンダム0083、∀、王立宇宙軍…アニメ界のレジェンドプロデューサー回顧録! 植田益朗×渡辺 繁【インタビュー】

『機動戦士ガンダム』『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『シティーハンター』『攻殻機動隊』、『犬夜叉』『ソードアート・オンライン』、それに「OVA」「EMOTIONのモアイのロゴ」――これらの作品群や概念と全く縁がない日本のアニメファンは存在しないと言っていいだろう。

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ガンダム0083、∀、王立宇宙軍…アニメ界のレジェンドプロデューサー回顧録! 植田益朗×渡辺 繁【インタビュー】
  • ガンダム0083、∀、王立宇宙軍…アニメ界のレジェンドプロデューサー回顧録! 植田益朗×渡辺 繁【インタビュー】
  • 植田益朗
  • 渡辺 繁
  • 『劇場版機動戦士ガンダムI』(C)創通・サンライズ
  • 『CITY HUNTER』メインビジュアル(C)北条司/NSP・読売テレビ・サンライズ
  • 「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」(C)1982 ビックウエスト
  • ガンダム0083、∀、王立宇宙軍…アニメ界のレジェンドプロデューサー回顧録! 植田益朗×渡辺 繁【インタビュー】
  • (C)BANDAI VISUAL/GAINAX
『機動戦士ガンダム』『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『シティーハンター』『攻殻機動隊』、『犬夜叉』『ソードアート・オンライン』、それに「OVA」「EMOTIONのモアイのロゴ」――これらの作品群や概念と全く縁がない日本のアニメファンは存在しないと言っていいだろう。

これら日本を代表する名作アニメの数々をプロデュースし、アニメを楽しむための基盤を築いてきたのが元アニプレックス/A-1 Pictures代表取締役社長の植田益朗氏と元バンダイビジュアル取締役社長の渡辺 繁氏だ。
現在は株式会社スカイフォールを共同経営するふたりだが、かつては制作サイドと販売サイドとして、ぶつかり合い協力し合いながら作品を世に送り出してきた。

世界中で愛される作品が誕生してきた時、プロデューサーの肩書を持つ人物はどんな役割を果たしてきたのか。ふたりが手掛けてきた巨大な作品群の中から『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』『∀ガンダム』の制作秘話をもとに、今を生きる若いアニメファンやクリエイターたちへ向けた知見を頂戴した。
また、ふたりの最新プロデュース企画となる2020年12月18日(金)開催「シド・ミード没後一周年追悼トークライブ」についても、その価値と見どころについても紹介する。

    ◆プロフィール◆

    植田益朗


    植田益朗
    1955年東京都生まれ。1979年日本サンライズ(現サンライズ)入社。『機動戦士ガンダム』の制作を経て、劇場版『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』が初プロデュース。以後『銀河漂流バイファム』『シティーハンター』『∀ガンダム』など、数々の名作・ヒット作を手がける。「機動戦士ガンダム生誕20周年記念プロジェクト」完遂後、2000年にサンライズを退社。フリープロデューサーとして『犬夜叉』の制作に携わる。アニプレックス立ち上げ時に制作統括として参画。その後A-1 Pictures社長、アニプレックス社長・会長を歴任。現在は株式会社スカイフォール代表取締役。

    渡辺 繁


    渡辺 繁
    1957年福島県いわき市生まれ。以降高校卒業まで県内を転々と移り住む。 1981年バンダイグループ・ポピー配属後、版権管理業務、男児玩具開発を経て、バンダイの新規事業である映像部門を担当。アニメ、特撮を中心とする作品編成を基盤に「EMOTION」レーベルを創設。世界初のOVA『ダロス』を担当したほか、バンダイ初の劇場映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を企画。またディズニービデオでは日本初のセルスルー・マーケティングの担当も経験した。主なプロデュース作品に『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』『人狼JIN-ROH』『メトロポリス』『スチームボーイ』『電脳コイル』『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』『仮面ライダーZO』『ウルトラマンパワード』『HANA-BI』などがある。藤本賞奨励賞、アニメーション神戸功労賞など受賞。株式会社サンライズの取締役も12年間務めた。2011年の東日本大震災発生とともに30年勤務したバンダイナムコグループを退社し、現在は植田と共に立ち上げた株式会社スカイフォール専務取締役。大の映画好きであり、クリント・イーストウッドのことを語らせたら人後に落ちない。
    (株式会社スカイフォール「プロフィール」(https://skyfall.me/profile.html)より)


■レジェンドアニメプロデューサーの学生時代「アニメに興味なかった」


上述のプロフィールを見れば、ふたりが今のアニメシーンの礎を築いてきた名プロデューサーであることに疑いの余地はないだろう。一方で、これら輝かしい業績を成す前、ふたりは一体どんな学生だったのだろうか。

「高校であまりに親に迷惑をかけたもんですから、大学では苦労させまいと思っていましたね」

そう言って笑うのは植田氏だ。日本大学の芸術学部映画学科に入学した理由は、映画好きだったことに加え、父が日本大学の職員であったため家族は学費を減免されていたという理由からだ。
富野由悠季監督や片渕須直監督を輩出した同学科でシナリオの授業を受けていたものの、理論面での学習には飽きがきて、3年次以降は実際の映画撮影現場にアルバイトで入り美術補佐などの現場作業に明け暮れた。
学生アルバイトである事は現場では口外しておらず、一人前のスタッフとして松田優作主演の『殺人遊戯』(1978)等の映画にも参加している。この時体験した大人数での作品制作の現場の熱気が、後年の植田氏の作品作りやチームビルディングに大きな影響を与えていく。

就職活動は卒業直前までしていなかった。4年の2月にたまたま現場作業が途絶えたため2、3社応募するも不採用。卒業した後4月になってから大学の教授に偶然勧められたのが日本サンライズ、現在の株式会社サンライズの制作進行だった。

当時の植田氏は、アニメは実写関連のスタッフがシナリオで参加していた『ルパン三世』シリーズくらいしか見ておらず、好きなアニメといえば小学生の頃に見た虫プロの『悟空の大冒険』(1967)という感覚だった。
当然アニメの制作進行がどういう仕事かも分からない。当時は『宇宙戦艦ヤマト』(1974)に端を発する第二次アニメブームの最中だったはずだが、植田氏はそういったムーブメントに押されて業界を志望したアニメファンではなかったのだ。

日本サンライズ入社後「君にはこの作品を担当してもらう」と指さされたポスターには『機動戦士ガンダム3』(『機動戦士ガンダム』(1979)の仮タイトルの一つ)と記されていたが、その時も内心「ガンダムって何だよ。隣の『サイボーグ009』の方がいいな」と思ったという。

『劇場版機動戦士ガンダムI』(C)創通・サンライズ
「『ガンダム』が終わったら制作の仕事は辞めよう」そう思っていたが、富野由悠季監督から「次の企画があるからもうちょっと頑張ってみないか」と言われ『伝説巨神イデオン』(1980)の制作進行として残留。『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙(そら)編』(1982)でプロデューサーとなり、以降同社で『銀河漂流バイファム』(1983)『シティーハンター』(1987)等のヒット作を次々と生み出していくことになる。

『CITY HUNTER』メインビジュアル(C)北条司/NSP・読売テレビ・サンライズ『CITY HUNTER』 (C)北条司/NSP・読売テレビ・サンライズ
一方、渡辺氏も植田氏と同じく相当の映画少年であった。クリント・イーストウッド主演『ダーティハリー』(1971)は劇場で252回見たという熱中ぶりで、大学でも文学部で映画研究をしたいと思っていたがあえなく不合格。叔父の「潰しが効くから」という勧めで同じ大学の法学部に進学した。
一時は法曹を目指し勉強に集中したが周囲の学友の優秀さに気圧され大学2年で挫折。3年からはアルバイトに精を出すようになる。そんな中、渡辺氏の命運を決定づける出会いがあった。

亀有駅前の玩具屋・くさま(『こち亀』秋本治先生御用達だったが、現存していない)でウルトラマンの着ぐるみを着てアルバイトをしていた時のことだ。1日3回のショーを、ずっと同じ場所から動かず見つめる少女がいる。そのウルトラマンとしての自分を見つめる憧れに満ちた瞳の真っ直ぐさに、渡辺氏は「こういうヒーローを作り出すことができたらな」と思った。

バイトが終わって着ぐるみを脱ぐと、内側に「ポピー」と書かれている。ポピーとはかつて存在していたバンダイ内の玩具メーカーで、超合金やポピニカ、ジャンボマシンダーなど数多くの特撮ヒーローやアニメキャラクターの商品を発売していた。
「そうか、この会社に行けばいいのか」これが渡辺氏がバンダイに入社した経緯だ。渡辺氏もまた、アニメや特撮好きが高じてその道に、というわけではなかったのだ。

■世界初のOVA誕生は「結果的に、たまたま」


無事バンダイグループのポピーに入社した渡辺氏だったが、法学部卒ゆえ経理部で版権管理を任されることとなった。
直接ヒーローづくりに携われないことで歯噛みする時期もあったが、ポピーは他社が有する作品キャラクターのライセンスを借りて商品化するのが主業務であったため、渡辺氏は東映、タツノコ、東京ムービー、小学館など、国内の数多の版元と直接ビジネスを行うことになった。そこで得た人脈と知見がその後の力になっていく。

その後入社2年目にして怪獣やウルトラマン関連の商品企画を立ち上げた渡辺氏だったが、それが始動する矢先にバンダイのフロンティア事業へ異動が命じられる。1983年のことだ。
当時六本木にあったバンダイ直営のアンテナショップでビデオメーカー事業を立ち上げることになったが、渡辺氏自身はもちろんバンダイにも映像販売の経験はない。
新レーベルの設立準備を進めつつ、休日は世間のニーズを知るため店先に立ってレジ打ちをし、どんなビデオやレーザーディスクが売れるのか、どんな客が買いに来るのかをリサーチした。
「お客さんから学べ」というのが、上司であった杉浦幸昌氏(当時ポピー常務、その後バンプレスト社長、バンダイ会長を歴任)の考えだ。

その結果アニメや特撮にニーズがあると見定め、立ち上げたビデオレーベルEMOTIONから『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1982)、『超時空要塞マクロス』(1982)、『ルパン三世』(1977)、『未来少年コナン』(1978)、特撮作品『快獣ブースカ』(1966)、『怪奇大作戦』(1968)、『マイティジャック』(1968)のビデオをリリースする。前者2作品は杉浦常務が、他は渡辺氏がビデオ化権を取得した。

「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」(C)1982 ビックウエスト『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(C)1982 ビックウエスト
『ウルトラマン』(1966)や『ウルトラセブン』(1967)等のメジャータイトルは東映や東宝が既にビデオ化していたため、取得できたのは比較的マイナーな作品に限られた。だがこの時作品のビデオ化権取得のために動けたのは氏が入社時から様々なライセンス窓口の人と既につながっていたからであり、入社3年目にして早くも大学で学んだ法の知識や入社直後の人脈が活きたのだ。

既存作品のビデオ化だけでは収益化は難しい。EMOTIONレーベルオリジナルの作品が必要である。そこで誕生したのが劇場やTV放送に依らないビデオ発の作品、世界初のOVA(オリジナルビデオアニメーション)『ダロス』(1983)だ。

『ダロス』(C)1990バンダイビジュアル
本作は元々『ミンキーモモ』の後番組として企画されていたがTV番組としては一度お蔵入りしており、渡辺氏はポピー時代にその企画に携わっていた。TV企画の際にプレゼンテーションに来たのはスタジオぴえろの布川ゆうじ社長、『科学忍者隊ガッチャマン』(1972)総監督の鳥海永行監督、当時『うる星やつら』(1981)で人気を博していた脚本家の伊藤和典氏と押井守監督だったが、OVAとなった『ダロス』は布川体制の元、鳥海・押井コンビによって映像化されている。

「ビデオメーカーとしてプロダクトを作るという意識だったので、植田のように『作品を作る』という意識はほとんどないです。世界初のOVAというのは結果であって、たまたまです」

と渡辺氏は言う。だが、氏の築いたOVAというメディアはすぐにEMOTION以外のビデオメーカーからも発売されるようになり、SF、美少女、アダルト、バイオレンス等、劇場やTV放送では実現し難いエッジの利いた作品群とスタークリエイターを数多く生み出した。氏の仕事が日本のアニメの表現の多様化に大きく寄与したことは間違いない。

■『王立宇宙軍』を推した宮崎駿監督「彼らならやるかもしれない」


渡辺氏はバンダイビジュアルの他にバンダイ本社の社長室新規課にも籍を置いていた。
そこでは製作委員会の一員として『AKIRA』(1988)や『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)等に出資をしていたが、それらに先立ってバンダイが主幹事となって製作した劇場アニメ第一弾が『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987)だ。庵野秀明監督、前田真宏監督、貞本義行氏、樋口真嗣監督等、錚々たるメンバーによる時代を超えた名作映画である。

(C)BANDAI VISUAL/GAINAX『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(C)BANDAI VISUAL/GAINAX
彼らは当時アマチュア映像集団 DAICON FILMとして日本SF大会のオープニングアニメや『愛國戰隊大日本』『八岐之大蛇の逆襲』等の作品を発表しており既にコアなアニメファンからは評価を得ていた。だが当時彼らはまだプロではなく、バンダイの役員らが億単位の出資を決めるには材料が乏しかった。

そこで太鼓判を押したのが宮崎駿監督だ。渡辺氏は庵野監督が『風の谷のナウシカ』(1984)に参加していた縁で宮崎監督にも『王立宇宙軍』のパイロットフィルムを見てもらい、感想を求めた。もし当時頭角を表しつつあった気鋭の映画監督からの推薦を得られれば、出資を判断する役員会議でも大きな影響力があると考えたからだ。

宮崎監督は映像を見たうえで「やれる人間はやれるし、やれない人間にはやれない。彼らならやれるかもしれない」「実績やデータじゃない。もしプロとしての実績がないというだけで彼らの活動を認めないという人がいるのであれば、自分がバンダイの役員会に行って説明するので呼んでください」と強烈にプッシュしたという。
実際には宮崎監督が役員会に顔を出すことはなく、この力強いコメントだけで出資が決まった。

なお、当時の宮崎監督は『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)『風の谷のナウシカ』で一部ファンからは評価されていたものの、まだ興行的な意味でのヒットメーカーではなかった。そんな彼の言葉が重い意味を持っていたのは、その才能を多くの人が認めていたからだ。
アニメージュ初代編集長の尾形英夫氏もその一人で、渡辺氏の上司である杉浦常務は尾形氏から常々宮崎監督の評判を聞いていた。それが前述のヒアリングにつながったのだ。
なお渡辺氏と宮崎監督の仲介は押井監督が行っており、ここでも人と人のつながりが効いている。また尾形氏と当時アニメージュ副編集長だった鈴木敏夫氏は『ダロス』の時に誌面で応援する特集を組んでくれたという。

渡辺氏は強調する。

「バンダイと徳間書店という企業対企業の話ではないんです。杉浦さんと尾形さんという人と人との関係があったらからこそ。人と人とが響き合った時に大きな石が動かせるんです」

かくして『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は1987年3月14日に公開。奇しくも植田氏プロデュースによる漫画原作アニメ映画『バツ&テリー』(1987)と同日公開であった。
同じアニメプロデューサーとして、植田氏は『王立宇宙軍』をどう見ていたのか。

「アマチュアにいきなり劇場用作品を作らせるなんてとんでもないことをするな、と思いましたね。とくに『(ノーネームのアマチュア集団による作品だから)音楽は坂本龍一に依頼した。高いギャランティは宣伝費だ』と聞いてのけぞりました。そんなやり方があるのか、と。現場サイドのプロデューサーには思いつかない発想です」

当時はバンダイの二代目社長・山科誠氏が任した直後であり、一代目を超えるべく玩具以外の様々な分野に進出していた。映像事業もその一つで、そういった背景があったからこそアマチュア制作の映画に億単位の出資ができたという面もある。また、坂本龍一氏をアサインできたのもEMOTIONの初期にYMOの細野晴臣氏のMVをリリースしておりその縁で人脈があったからだ。
時代が味方したことと数多くの人が支えてくれたこと、それによって生まれたのが『王立宇宙軍』だったのだ。

■『0083』に見る「力を尽くした作品は長く愛される」ということ


制作側である植田氏と販売側である渡辺氏、両者が直接顔を突き合わせる場面はその後あまりなかったという。ただし、まだ当時はバンダイの子会社ではなかったとはいえサンライズ作品のビデオがバンダイから発売されるケースは多く、間接的には常々浅からぬ縁だった。

OVA作品『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』(1991)もふたりをつなぐ作品の一つだ。『マクロス』シリーズの河森正治やカトキハジメらによるスタイリッシュなメカとレベルの高い作画で現在でも人気のシリーズだが、作品へのこだわりは制作サイドとメーカーサイド両方にとって悩みの種となった。

「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY」(C)創通・サンライズ『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』(C)創通・サンライズ
「前作がヒューマンドラマメインだったので『0083』ではモビルスーツ戦を多く盛り込もう。また、せっかくのガンダムだから1クール分やろう。そういう企画だったのですが、今思えば後で苦労することが分かり切ってるコンセプトでしたね」

植田氏は回顧する。
現場スタッフに熱が入ってくると、既に十分なクオリティが出ていてもなお高いレベルの画を目指そうと尽力する。すると納期は遅れ予算も超過する。当然ビデオパッケージの販売も延期せざるを得ない。特に期を跨ぐような遅延は会社の決算にも影響するので経営者としては絶対に避けたい事態だが『0083』は何度か発売を順延している(前作『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(1989)は1か月1巻ずつ定期的にリリースされていた)。

「高梨さん(バンダイビジュアルの高梨実プロデューサー、渡辺氏の部下にあたる)がサンライズに来て『渡辺が、もう我慢の限界だ、サンライズに俺が出向くと言ってます』と言うわけです。それで現場の南(現ボンズ代表取締役の南雅彦プロデューサー)にどうなってるんだと聞くと『上がらないものは上がらない』と。仕方ないからふたりで話し合ってもらい、サンライズの役員会では『仕方ないよね?』と開き直って報告しました」

販売側の心境を察すると笑いにくいエピソードだが、植田氏は続けてこう述べる。
納期やクオリティを厳守することで素晴らしい作品が出来上がる場合もある。だが、現場でモノづくりをするスタッフがどういう気持ちでどんな風に打ち込んでいるのかを知ることもまた、プロデューサーには欠かせないことだ。実際、高梨プロデューサーも現場のスタッフの熱量を見て「それ以上する必要はないから納期を守ってください」とは言えなかったという。

仮に納期がずれて短期的なビジネスに支障が出たとしても、本当にいいものを作ることができればそれは長く愛される作品になり、ビジネスも長くできる。
一方で、現場のプロデューサーには決算報告に関わるような決定権がないのだから、その上の立場の人間もまた、現実的なことだけでなく作品の将来を見据えて判断をすべきだ。植田氏はそう振り返った。

一方、渡辺氏の回顧は明快だ。

「『0083』は高梨&南コンビの作品ですよ。僕は彼を叱らないといけない立場でしたが、ふたりは現場ではそれも込みで握ってたんじゃないかな」

植田氏の狙い通り『0083』は人気作となった。当時ビデオパッケージ販売が好セールスを記録しただけでなく、2020年現在もフィギュアやコミックスの新作が発売され続けている。高梨プロデューサーは惜しくも2017年に逝去されたが、力を尽くした作品は今なお愛され生きている。

■これからのガンダムをも許容する『∀』のデザイン


1995年にバンダイがサンライズを子会社化したことによりバンダイの映像事業はより発展を遂げることとなる。渡辺氏はバンダイビジュアル代表取締役社長として映像とマーチャンダイジングを包括的に展開する事業構想・プラン99を始動する。
1999年を見据えたこの事業は後にデジタルエンジン構想と名を変え、大友克洋監督作品『スチームボーイ』(2004)、押井守監督作品『G.R.M.』(通称『ガルム戦記』、後に『ガルム・ウォーズ』(2016)として映像化)等の作品を生み出す基盤となった。

サンライズ側の責任者としてプラン99に携わっていた植田氏は、1999年に『ガンダム』が放送20周年を迎えることに絡めて「ガンダムビッグバンプロジェクト」を立案。1998年にリアルイベント「ガンダムビッグバン宣言」を開催し、大友監督による映像作品『GUNDAM Mission to the Rise』(1998)、シリーズ初の実写映画『G-SAVIOUR』(2000)等の意欲作を次々と発表する。
そしてこのプロジェクトの中核として位置付けられたのがシリーズ20周年記念作品制作プロジェクト「ガンダムAプロジェクト」であり、富野監督による『∀(ターンエー)ガンダム』(1999)として世に出ることになる。

「∀ガンダム」(c) 創通・サンライズ『∀ガンダム』(C) 創通・サンライズ
作品としての『∀』については昨年植田氏と主演の朴ロ美氏(「ロ」は「王」に「路」)にインタビューを行っているため、今回はメカデザインとしての『∀』にフォーカスする。

【関連記事】「∀ガンダム」誕生秘話!突き詰めた“ガンダムの本質”とは? 植田P&朴ロ美が明かす

20周年記念作品に相応しい新ガンダムをデザインができるのは誰か――その候補として富野監督の口から発せられたのが、『ブレードランナー』(1982)、『トロン』(1982)、『エイリアン2』(1986)等のSF映画でデザインを手掛けたインダストリアルデザイナー、シド・ミード氏の名前だ。氏は自らビジュアル・フューチャリストと名乗り、未来を可視化することに関する世界的な巨匠である。
富野監督の案を受けて植田氏が相談したのが、他でもない渡辺氏である。渡辺氏は1987年にロサンゼルスで開催した『王立宇宙軍』のワールドプレミア試写会に氏を招待しており、1991年にシド・ミード氏の映像付き作品集『クロノログ』の発刊も手掛けた、本邦において特にミード氏と縁深い人物の一人だったのだ。渡辺氏はミード氏のマネージャーにメールで連絡し、すぐに快諾を得る。

「ミードさんが∀の仕事を請けてくれた背景には『YAMATO2520』(1995)の経験があります」

渡辺氏はそう指摘する。ビデオ3巻のみのリリースに終わった『2520』だが、ミード氏は本作に足掛け6年を費やし第18代YAMATOをデザインし、日本のアニメやキャラクターのロジックや構築手法について学んだという。
YAMATOのデザインにあたっては初代宇宙戦艦ヤマトだけでなく実在した戦艦大和の図面も入手し参照しているが、『∀』の際も既存のガンダムデザインを参照し、ファーストガンダムやガンダムX、陸戦型ガンダム、ガンダム試作1号機等のモビルスーツを実際に描いてデザインや構造を研究している。

『∀ガンダム』は「全てのガンダムを肯定する」というコンセプトが根底にある作品だ。そのため∀ガンダムのデザインもまた、過去のガンダムも未来のガンダムも全て包み込む空前絶後のものである必要がある。
ミード氏が完成させた∀はまさにそんなアイデアを具象化させたものとなった。

シリーズが40周年を迎えガンダムに対するイメージも格段に多様化した現在では想像しにくい事だが、初の宇宙世紀以外を舞台として大きく作風を変えた『機動武闘伝Gガンダム』(1994)は当時ファンの賛否両論、議論百発を巻き起こした。

「機動武闘伝Gガンダム」(C)創通・サンライズ『機動武闘伝Gガンダム』(C)創通・サンライズ

「ガンダムはかくあるべし」という固定観念の数々が根強く残っていた当時、全てのガンダムを肯定するという『∀』のコンセプトは送り手に相当の覚悟を要するものだったのだ。
世界的権威であるシド・ミード氏がガンダム世界を変えていくある種の共犯者として傍らに立ってくれたことは非常に心強く支えになった、と植田氏は振り返る。

「裏を返せば、∀のデザインは『これからどんなガンダムが出てきてもいいよ』『ここまでやってOKだよ』という許容のメッセージでもあるんです。『∀』から20年以上経過しましたが、これからもっとびっくりするような斬新なガンダムが出てくることに期待します」

■『道具バカになるな』


∀のデザインは発表当時ファンから「ヒゲ」と呼ばれ、ある意味では『Gガンダム』以上の議論を巻き起こした。しかし近年になって評価が高まっているのを感じると渡辺氏は言う。
何故なら、2019年4月に植田氏と渡辺氏が幹事となって開催した「シド・ミード展 PROGRESSIONS TYO 2019」に多くの若者が来場し、そのデザインに感動するさまを目の当たりにしているからだ。

最終的に3万2千人の動員を記録した「シド・ミード展」だったが、5000人程度に落ち着くという見込みもあり、図録もその予測にあわせて用意していた。見込みがいい意味で外れたのは、多大な影響を受けたクリエイターらやコアファンだけでなく、シド・ミード氏の作品に触れたことがない若い層が噂を聞きつけて来場したからだ。

結果的に会場であるアーツ千代田3331では記録的な動員数となり会期も延長され、図録は会期終了を待つことなく売り切れとなった。一時期プレミア価格がついて入手が困難になっていた図録は愛蔵版の刊行が決定し、2020年12月現在予約受付中となっている。

>愛蔵版購入リンク:

ミード氏は従前から「自分の作品を今の若い人に見てもらいたいんだ」と言っていたという。『YAMATO2520』『∀ガンダム』など日本独自のラインナップを揃えARによる展示ギミックも盛り込んだ「シド・ミード展 PROGRESSIONS TYO 2019」はその希望を叶えるものとなった。
開催前は体調不良により入退院を繰り返していたミード氏だったが、シド・ミード展に多くの若者が足を運んでいるという報告を受け、感激のあまり体調が好転したという。

2019年6月に会期が終了した後も植田氏渡辺氏とシド・ミード氏の交流は続いた。同年7月にミードデザインのフューチャーカー「メガコーチ」を1品限りのラジコンカーにして誕生日にプレゼントすると、その返礼として改良プランのデザイン画が送られてきた。その画は上述の図録愛蔵版にミード氏の最後のスケッチとして収録される。


シド・ミード氏は2019年9月に現役引退宣言をした後、同年12月30日に惜しまれながら逝去した。「シド・ミード展 PROGRESSIONS TYO 2019」は氏の希望を存命中に叶えた最後のイベントとなったのだ。

ミード氏の一周忌の直前となる2020年12月18日には「シド・ミード没後一周年追悼企画トークライブ」が配信される。植田氏と渡辺氏が登壇するのはもちろん、ミード氏から多大な影響を受けたという『AKIRA』の大友克洋監督、『シン・ゴジラ』(2016)の樋口真嗣監督、『マクロス』シリーズの河森正治監督、マルチクリエイターの出渕裕監督、SFアートの雄・スタジオぬえの宮武一貴氏&加藤直之両氏、映画評論家の清水節氏など各界のトップランナーらが参加する。これら豪華ゲスト陣がキャスティングできたのも、もちろん両氏の人とのつながりがあってこそだ。

【関連記事】大友克洋、河森正治らが天才デザイナー シド・ミードを語る ミード没後一周年追悼企画トークライブ配信決定

同ライブイベントの目的は故人を悼んで過去に目を向けることだけではない。「シド・ミード展 PROGRESSIONS TYO 2019」と同じく、フューチャリストの描く未来を今の若い人に見てもらうことにある。
トークライブの見どころについて、渡辺氏はこう話す。

「ミードさんの言葉の一つに『道具バカになるな』があります。未来を描く際に必要なのはイメージすることであって、使うものは馬の毛の筆で構わない。道具が最先端だから未来が描けるわけではないのです。今回登壇するゲストもみな道具ではなく素晴らしいイマジネーションやアイデアで活躍してきた方々です。過去を振り返るだけでなく、若い人とも一緒に未来を想像できるトークにしたいと思います」

渡辺 繁、植田益朗、シド・ミード(左から)渡辺氏、植田氏、ミード氏の3ショット写真。中央のフィギュアは『∀ガンダム』に登場し、ミード氏がメカデザインを手掛けたターンX

■2大プロデューサーから未来へ向う君へ


インタビューの最後に、トークライブに先駆けて植田氏と渡辺氏からアニメ!アニメ!をご覧の若いアニメファン、アニメ業界を目指す若いクリエイターへの言葉を頂戴した。

植田氏は「人との出会いやつながりを大切に」としたうえで「どんなところにも自分を変えるチャンスはあります。それはむしろ自分が希望していなかった場所にあるのかもしれない。アニメ業界を意識していなかった自分が一生の仕事場になってしまったこともあるわけですから」「もう一つ言うとすれば、作品作りと同じでやるべき時には粘りが肝心です。ネバーギブアップです」と結んだ。

渡辺氏は「これも杉浦さんからの受け売りなのですが『どんなに無様なことになってもいいからとりあえず打席に立て』です。陰で素振りを繰り返して自己満足しても一生打てるようにはならない。いくら恥をかこうが、とりあえず打席に立っていれば思わぬ出来事や出会いがあるかもしれない。失敗を恐れず腐らず前に出ることです」と熱く語った。

共に自身の経験に裏打ちされたことが感じられる言葉だ。そしてふたり自身もまた現役のプロデューサーである。植田氏と渡辺氏が世に問う次なる企画を楽しみに待ちたい。

〈参考文献〉
『ガイナックス・インタビューズ』(堀田純司、講談社、2005)
『ミード・ガンダム[復刻版]』(シド・ミード、復刊ドットコム、2015)

【開催概要】
~未来の若きクリエイターへ贈る~「巨匠たちが語るシド・ミードの世界と魅力」
日 時:2020年12月18日(金)
会 場:Hall Mixa(池袋 Mixalive TOKYO B2F)
出 演:
[第一部]大友克洋、加藤直之、樋口真嗣、渡辺 繁/清水 節(モデレーター)
[第二部]出渕 裕、河森正治、宮武一貴/植田益朗(モデレーター)
※敬称略・各五十音順
料 金:12月8日(火)よりチケット発売開始
※詳細は公式ホームページより発表致します。

主 催:シド・ミード トークライブ実行委員会
協 力:Syd Mead, Inc.
「~未来の若きクリエイターへ贈る~“巨匠たちが語るシド・ミードの世界と魅力”」公式サイト
《いしじまえいわ》
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