「リトルウィッチアカデミア」未熟なアッコを主人公たらしめたものとは 藤津亮太のアニメの門V 第24回 | アニメ!アニメ!

「リトルウィッチアカデミア」未熟なアッコを主人公たらしめたものとは 藤津亮太のアニメの門V 第24回

連載・コラム

『リトルウィッチアカデミア』のアッコはとてもおもしろいキャラクターだった。
魔女家系でないにもかかわらず、アイドル的人気を博していた魔女シャイニィシャリオに憧れ、ルーナノヴァ魔法学園へと入学したアッコ。明るくて元気はよいものの、成績は低空飛行の劣等生。おまけにおっちょこちょいで根気がなく、ズルをしてしまう時だってある。とはいえ、そういうキャラクターだからこそ持てる“突破力”がある。それがストーリーを駆動していく力となり、アッコが主人公として振る舞える重要な要素となっている。
こういう主人公の場合、「未熟さ」はストーリーがクライマックスに近づくにつれ、少しずつ改められていくものだ。それがつまり成長であり「大人」への階段であるというわけだ。

ところがアッコの場合、そういう変化は最小限に留められていた。
作中で体験したさまざまな出来事は間違いなくアッコの中に残っているのだが、それらの出来事が起こしたのは「アッコの内面の変化」ではなく「アッコと周囲の関係の変化」なのだ(いくつかのエピソードが、その回のメインとなったキャラクターだけのドラマにとどまらず、アッコとの関係を描くストーリーになっていることに注目)。
だからアッコ自身は、ほとんど変わることはない。わずかな変化の象徴として、最終回に「ちょっとだけ飛べるようになった姿」が描かれる程度だ。
実はこの「変わらなさ」こそがアッコのアイデンティティであり、そこにはある種の“感動”がある。

ここで思い出すのは、『耳をすませば』のこんなやりとりだ。
作家に憧れる主人公・雫は、偶然親しくなった西老人が持っていた人形を主人公に小説を書こうと決意する。そんな雫に西老人は雲母片岩という石を見せる。
その岩の割れ目の奥にはエメラルドの原石が見える。創作をするということは、そんなふうに自分の中にある原石を磨く作業だという。しかし西老人曰く、雫に見せた石に覗く原石は磨くとかえってつまらないものになってしまうものだという。そして、岩の中の見えないところには、もっとよい原石があるかもしれないし、ないかもしれない。

西老人はここで、広い意味で創作にまつわる“才能”をめぐる話をしている。そしてそこには才能論の延長線上に、“大人論”が含まれている。
この“大人論”をひとことでいうなら、子供というのは可能性“しか”持っていない。だから素晴らしい、というものだ。そして、大人は、その可能性を失ったから大人なのである。
子供が自分を見つめ、その長所でもって社会に生きていくようになること(原石を磨いていくこと)が「成長」であることは間違いない。ただ特別な人間以外は、それは「平凡」(これは否定的な意味ではない)への道でもある。人間というのはそれほど個性的な天分や個性など持っていない。磨いて形にしたぶんだけ、誰にも受け入れてもらえるかわりに、“よくあるもの”になってしまうことも多い。そうなった時に、子供時代にあった可能性は失われてしまう。
自分が本気で何もやっていないと感じ、自分を限界まで追い込んでいこうという雫。会話の中で、西老人が、自分は原石のままも好きだが、とコメントを添えるのは、老人故に「原石のままでいられる幸福」というものが人生のある一瞬において存在することを知っているからだ。

実はアッコの魅力というのは、西老人がここで指摘しているような、原石のまま「可能性しかない」というところに尽きる。
今のアッコは何もできないからこそ未来への可能性がある。その一点においてアッコはとても“自由”なのである。だからアッコは眩しく見えるし魅力的な主人公なのだ。
逆にいうとアッコが自分の可能性を見つけ出し、それを“磨き”始めた時、アッコというキャラクターは変わって(終わってしまう)。 もしアッコが成長をしてしまうと、この可能性は消えてしまう。アッコはアッコではなくなり、やがては「普通の元気な魔女」がいるだけ――になってしまう。

このアッコを中心にキャラクター配置を見ると、この「子供時代の無限の可能性」をどう扱うかポイントになっている。
アッコと対になるャラクター、ダイアナは「大人にならなくては」と自分に言い聞かせて、自分の中にあった「子供時代故の可能性」に蓋をしてしまった。
シャイニィシャリオ(アーシュラ)は、子供っぽい夢を抱いてステージに立ち、それが観客にとって「凡庸」になっていくことに焦りを感じて、大きな失敗をしてしまう。それまでは自分を騙して続けてきたが、「やりたいこと」「できること」「求められるもの」の3つがバラバラなことがその瞬間に明らかになったのだ。いわば「原石をうまく磨きそこねた人」といえる。
そして、そのシャリオの「磨きそこねた姿」を見ながら複雑な心境を抱いていたのがクロワ。クロワは、自分の中の可能性を磨いて特別な存在になりたかったのだろう。だが、その運命に恵まれたのはシャリオのほうだった。はたから見れば十分実力があるクロワだが、彼女にとってはそれはむしろ自分が凡庸であることの証でもあるのだ。

こうして考えると「飛べない魔女」というアッコのマイナスの個性付けは、シリーズを通じて非常にうまく機能していた。
もし、飛べるようになってしまえばアッコは「成績の悪い普通の魔女」に過ぎないのである。だからこそ、最終回の「ほんのちょっとだけ飛べている」という落としどころのわかりやすさは絶妙で、「2クールかけて描いたアレコレは無駄じゃなかった」という感じは出しつつも、アッコというキャラクターの可能性はしっかりキープされている。
そして、むしろアッコのまわりにダイアナを含め同級生たちが集まっていることのほうが、アッコの物語としては意味合いとしては大きいことも伝わってくる。
きっとアッコは、いつかは普通の大人になるのだろう。たぶん世界を変えてしまうような天才魔女にはならないのではないか。シャリオにロッドを返した時にアッコは、「シャリオになりたいわけではない」と明言しているのもそういう意味があるように思う。

ただ、そんな未来を想像するのはまだ早い。アッコはまだ「可能性しか持っていない」。そんなかけがえのない時代を(時にバカとポカを重ねながら)一生懸命生きてるアッコの姿を、まだちょっと見たいと思っているファンはかなり多いのではないだろうか。
そんな期待が高まる最終回ラストシーンでもあった。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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