高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第10回 新海誠「君の名は。」の句点はモンスターボールである―シン・ゴジラ、Ingress、電脳コイル 6ページ目 | アニメ!アニメ!

高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第10回 新海誠「君の名は。」の句点はモンスターボールである―シン・ゴジラ、Ingress、電脳コイル

高瀬司の月一連載です。様々なアニメを取り上げて、バッサバッサ論評します。今回は新海誠監督の最新作『君の名は。』を、『シン・ゴジラ』や『ポケモンGO』などと関連づけて論じています。

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■ 喪失感が重なり合う

【※ようやく『君の名は。』へと触れるところで再掲するが、本稿にはネタバレとなる記述があるため未視聴の方は注意されたい】

宇宙と地上に引き裂かれる2人(『ほしのこえ』)、約束を果たせないまま突然姿を消すヒロイン(『雲のむこう、約束の場所』)、転校による離別(『秒速5センチメートル』)――新海誠の主要なモチーフの一つに「喪失感」がある。それは『君の名は。』においても変わらず存在している。むしろ、これまでの新海作品の歴史の糸を結ぶような集大成としてある本作においては、より複雑に二重化されていると言ってもよい。それも、すでにこの世にはいないゴーストと入れ替わるという、怪異譚を導入することによって――。

その多重化された喪失を紐解くとき、ここまで振り返ってきたAR的文脈が補助線となりうるだろう。もちろん、『君の名は。』にARツールそのものは登場しない。しかし、にもかかわらずその比喩が有効なのは、主人公の立花瀧/宮水三葉は、現在の糸守村を見下ろしながら、かつてそこにあったはずの街の姿に想いを馳せることになるからだ。
そのとき、彼/彼女は変わり果てた街のうえに、記憶のポータル=個人の思い出を重ねて見ていたと言えるだろう。立花瀧は大災害に見舞われる前の街の様子を、スケッチという別の(広義のAR的)現実として描き出していた。しかし、現実の街(物理空間)はすでに穴(言うまでもなく、これも新海的モチーフだ)へと変わり果て、スケッチ(情報空間)に描いたポータルに対応する場所と、そこにいるはずの彼女の姿は失われてしまっている。これが映像とともに示される一つ目の喪失感。
そのうえで、現在の立花瀧のなかにある3年前の記憶のポータルは、ちょうど『電脳コイル』におけるサーチマトン(サッチー)がそうして回っていたように、本来ならばあってはならない異界のバグデータとして初期化されはじめ、ついには宮水三葉の名すら失われてしまう。こうして喪失は二重化され、何を喪失したのかすらわからない、むき出しの喪失感だけが残される。

喪失感を失った/に重ねられる喪失感。新海誠のベスト盤と公式が語りもする『君の名は。』には、これまでの新海作品の様々なモチーフや細部の結びなおしに満ちているが、つまりここからは、同様に喪失感も、これまで歩んできた主題として操作の対象として(あるいは結果として)構造的に布置しなおされていることが見て取れる。そしてそうした事態を可能にしたのが、大災害=3・11のモチーフの導入だろう。喪失に対して場所というレイヤーが加わることで、組紐が伝えるように、あるいはモンスターボールを投げるように、喪失そのものの意味が多重化させてゆく【注06】【注07】。

もちろん物語的には最終的に、立花瀧/宮水三葉が失われた街のうえに見たその記憶のポータルは「宮水のご神体」がある穴という、別の情報空間へとつながるまさにポータルそのものを通過することによって再び現実と紐づけなおされもすれば、2人も運命的に出会いなおされる。

しかし、喪失感を描き出す作家としての新海誠に着目すれば、震災というモチーフは、『君の名は。』におけるアニメ表現の力と、互いが互いのカタワレとなるように混交し存在しているのではないか。
このあり方は、『シン・ゴジラ』と通じるところがある。この作品をめぐる解釈上の有力な立場には、純粋な怪獣映画(エンターテインメント)として政治性・社会性を排除して読みたい人びとのほかに、ゴジラをモチーフとすることで3・11を描いた映画であるという見立てと、それに対しての、震災をモチーフ(方便)とすることで庵野秀明の個人史/映画史を描いた映画であるというそれがあるようだ。
だがここでもし、冒頭に引いた鈴木謙介の議論にならうならば、このような立場もありうるだろう。現実とWebを区別できないように、この両者のあいだに線を引くことも不可能なのではないか、と。
つまり、のちに『On Your Mark』(1995年)を監督した宮﨑駿のもとで、セカイを焼きつくす巨神兵(『風の谷のナウシカ』)を描き、宮﨑の自伝的側面も持つ『風立ちぬ』で主役を演じた、破壊のイメージに満ちた『エヴァ』シリーズの監督・庵野秀明が、特撮=ゴジラという核爆弾の象徴とされる怪獣を描くのに、3・11を綿密に調査し、そして神の名を含むゴジラを人が生み出した放射性物質を食べ半減期の短いそれとして放出する腐海(『風の谷のナウシカ』)的な表象として描き出す『シン・ゴジラ』は、それぞれの糸が複雑に織りなされることではじめて成立しえた作品だろう。だからやや転倒した言いまわしを許してもらえるならば、庵野はつねに震災(的なもの)を描いてきた作家であり、いま庵野が個人史(ベスト盤)を描くということは、3・11を描くということである。

翻って、新海誠の『君の名は。』も同様だろう。新海はつねに、震災的な喪失感を描いてきた作家であり、いま新海がベスト盤を描くということは、3・11を描くということなのではないか。
自分の力ではどうしようもない巨大な運命のようなものによって失われるセカイを、現実離れした美しさで叙情的/感傷的に写し取ること。場所と記憶と情報という震災的モチーフを正面から取り入れた『君の名は。』は、それが招き寄せる喪失感を重ね見る視線によって、新海誠のアニメーション表現としての強度においても集大成となる作品として、その名を忘れられないものにしたように思う。

▼注06:『君の名は。』は初期PV(映画のOP)から大成建設のCMまで、新海誠のあらゆる作品の要素が詰めこまれた集大成であるが、強いてプロットのレベルで最も近似している作品を挙げれば、「いつも何かを失う予感があると、彼女はそう言った」というセリフからはじまる『雲のむこう、約束の場所』だろうが、これもまさにタイトルに場所を含む作品であった。

▼注07:なお、注05で言及した「『妖怪ウォッチ』から考える」には、本稿では触れていないまだ先の展開があり、この文脈における一つの達成として片渕須直監督『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)を論じている。そこで展開される「聖地」をめぐる論点も、新海誠を思考するうえで有効な補助線となりうるのだが、その議論は2016年11月12日に公開される、こうの史代原作で片渕が監督を務める劇場アニメ『この世界の片隅に』においてあらためて展開する予定としたい。いまの時点で一つだけ論点を先出ししておけば、『この世界の片隅に』が「戦争と広島」という失われた場所をめぐる物語である点もまた、単なる偶然とは思えない。
《高瀬司》
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