高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第10回 新海誠「君の名は。」の句点はモンスターボールである―シン・ゴジラ、Ingress、電脳コイル 4ページ目 | アニメ!アニメ!

高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第10回 新海誠「君の名は。」の句点はモンスターボールである―シン・ゴジラ、Ingress、電脳コイル

高瀬司の月一連載です。様々なアニメを取り上げて、バッサバッサ論評します。今回は新海誠監督の最新作『君の名は。』を、『シン・ゴジラ』や『ポケモンGO』などと関連づけて論じています。

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■ 『電脳コイル』のメガネが映すセカイ

『電脳コイル』は2007年5月から12月にかけてTV放映され、第39回星雲賞メディア部門を受賞するなど、作画や物語のみならずその世界観をめぐっても大きな注目を集めた、磯光雄監督による近未来SFアニメである。

本作で中心的なギミックとして導入されたのが「電脳メガネ」というARツールだ。もちろん歴史的に振り返れば、『ドラゴンボール』のスカウターなどすぐさま前例が思い出されるギミックだが、スマートフォンの普及を背景としたARブームの先陣と同期するかたちで――2008年の「セカイカメラ」のコンセプト発表にも先駆け、2009年のオリジナルTVアニメ『東のエデン』やライトノベル『アクセル・ワールド』、2010年のオリジナルTVアニメ『PSYCHO-PASS』やゲーム『ROBOTICS;NOTES』、2013年のオリジナルTVアニメ『ガッチャマン クラウズ』などへつづいていくような――アニメにおける意識的なAR的表現のエポックとなった作品と言える【注04】。

『電脳コイル』の作品世界では、現実世界のうえに異界ともいうべき電脳空間(情報空間)が設定されており、正常であればその両者は紐づけられたままぴったりと重なり合っている。つまり現実の物理空間上で物体を移動させれば、それに対応する情報であるところの電脳物質も同じく電脳空間上を移動していく。しかしときにその繋がりはほどけてしまい、現実世界における物体の移動や損傷が、電脳空間上のそれに正しく反映されないというバグが生じる。物語の舞台である架空の特別行政区・大黒市には、そうしたバグをフォーマットする違法電脳体駆除ソフト・サーチマトン(サッチー)が走りまわり、対して子どもたちは電脳ツールという電脳空間上の情報を書き換えるアイテムを使い暴れまわる。このとき、現実の物理空間のうえに電脳空間を重ね見るためのARツールが、「電脳メガネ」というメガネ型デバイスというわけだ。

しかしここで興味深いのは、『電脳コイル』がAR技術を用い主題化するものが、怪異譚や都市伝説であり(イリーガルやミチコさん、アッチ)、そして何より「場所」と紐づいた「人の想い」であるという点だろう。電脳メガネによって視覚される異界というのは、いわば現在へと更新されていない「過去」の姿というべきものであり、人がその場所に残した「記憶」や「思い出」の隠喩として読むことができる。そして人はときに、過去の未練を断ち切れず、異界へと惹かれていってしまう(兄の死を受け入れられないイサコや、事故死したカンナの影を追うハラケン)。つまり『電脳コイル』はARという技術を通して、怪異譚や都市伝説を再解釈するとともに、人は自分の過去とどう対峙すべきなのかということを問うてくるわけだ。

2013年のゲームの発売とともに巨大なブームを巻き起こし、2014年からはTVアニメも放映中の『妖怪ウォッチ』との比較が理解の補助となるだろう。
『ポケットモンスター』の元となった昆虫採集モデルを踏襲した『妖怪ウォッチ』では、人間の悪しき振る舞いや問題発言の数々が、その当事者の人間性に起因するのではなく、すべて妖怪の悪戯によるものと見なされる。たとえばある人が理不尽に怒り出したとすればそれは人を怒りっぽくさせる妖怪が取り憑いたせいであり、嘘をついたとすればそれは人に嘘をつかせる妖怪のせいである、と。
歴史的に振り返ると、妖怪という概念はそもそも、説明のつかない世界の謎や理不尽な運命を受け入れるためのツールとして利用されてきた。その意味で、現代社会のなかに妖怪という虚構を導入し、そこに責任や理屈をアウトソーシングすることで、世界把握やコミュニケーションを円滑に進める『妖怪ウォッチ』のあり方は、オーセンティックな妖怪本来の有用性を、現代的なかたちで再利用したものと言える。

そして作中において妖怪を見ることができるツールとして存在するのが、時計型デバイス「妖怪ウォッチ」である(当り前すぎて確認するもの気恥ずかしいが、ここでの「ウォッチ」とは、「時計」型ツールであることと、普通の人間には見えない妖怪を「見る」ことのできるツールであることとのダブルミーニングである)。つまり『電脳コイル』における「電脳メガネ」が思い出という見えないものを異界として可視化したのと同様に、(現実のウェアラブル・コンピュータで言えばちょうど「Google Glass」に対する「Apple Watch」のように)「妖怪ウォッチ」は人格という見えないものを妖怪として可視化したARツールと見なすことができるわけだ【注05】。

ARという技術を通じて「子どもだけに見えるセカイ」を表現すること。
そのうえで、本稿が特に注目してみたいのがARによる「場所(空間)の意味の多重化」という性質である。というのも『電脳コイル』同様、『Ingress』における歴史的・文化的な場所(=ポータル)を引き継ぎ、(またまだ未実装のシステムではあるが、ポケモンと遭遇し捕獲した場所がステータスに記録されると予告されてもいた)『ポケモンGO』もまた、なんでもない場所が各プレイヤーにとっての特別な場所として発見される体験としてとらえられるからだ。モンスターボールを投げることは、AR的に場所の意味を多重化する行為としてある。

▼注04:いまやAR技術に関するトピックが話題にのぼるたびに引かれる定番化した一作であり、実際『ポケモンGO』を『電脳コイル』の延長線上のアプリゲームと見なす感想もよく見られた。たとえば冒頭に引いた鈴木謙介も、『ポケモンGO』について、民族学的視点から『電脳コイル』と関連づけて論じている。鈴木謙介「現実をポケモンが徘徊する~電脳コイル化するポケモンGO」『SOUL for SALE』http://blog.szk.cc/2016/07/24/pokemon-goes-the-real-world/(2016年8月22日閲覧)。

▼注05:なお本稿におけるAR的想像力とアニメ表現との関わりをめぐる議論は、次の論考から切り出し再構成したものである。高瀬司「妖怪ウォッチから考える――アニメを「見る」という体験」『反=アニメ批評 2014winter』(2014年)。またこの論考自体がそもそも『アニメルカ vol.3』(2010年)からの連載をまとめた座談会『背景から考える――聖地・郊外・ミクスドリアリティ』(2011年)をベースにしたものとなっている。
《高瀬司》
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