藤津亮太のアニメの門V 第9回「おそ松さん」そのおもしろさはどこから生まれたのか | アニメ!アニメ!

藤津亮太のアニメの門V 第9回「おそ松さん」そのおもしろさはどこから生まれたのか

連載・コラム

  
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『おそ松さん』の放送が終わった。ここで改めて『おそ松さん』のおもろさは、どこから生まれているかを考えてみようと思う。

筆者は東京新聞などの取材や雑誌「Febri」の連載「主人公の条件」などで、『おそ松さん』のポイントをおおむね次のように整理してきた。

1)原作、過去のアニメと異なり、六つ子に個性を与えたことで六つ子が主役として立った。
2)個性の違いは六つ子間の関係性を生み出し、関係性を前提にしてコントの組み立てが可能になった。
3)『おそ松さん』はバラエティ番組(コント番組)の文脈に置いたほうがわかりやすい。

以上は番組を見ればわかる、いうなれば“教科書通り”の答なのだが、この「アニメで演じられるコント」というのは、じっくり考える必要のあることのようにも思う。
そこで今回は、六つ子のキャラクターがどういうレイヤーで構成されているかを手がかりに、「アニメならではのコント」を考えたい。

『おそ松さん』の“六つ子”たちを構成する一番下にあるレイヤーAは、いうまでもなく『おそ松くん』である。
レイヤーAでは、「~松」というネーミングで統一された、六つ子の主人公で互いに顔がそっくり、という内容が決まっている。
(A)の上に、『おそ松さん』を成立させている「個性」のレイヤーBがのる。 レイヤーBでのっけられた「個性」というのは非常に記号的で、いわゆる「フラットキャラクター」(類型的な存在)である。

公式サイトのキャラクター紹介はこのレイヤーBについてと考えていい。たとえばおそ松ならば「小学校6年生メンタルのまま成長してしまった奇跡のバカ。パチンコと競馬が生きがい。」ということになる。
ところがシリーズが放送開始されると、このレイヤーBの上にレイヤーB'がのることになる。このレイヤーB’は、キャラクターの個性の「B面」に相当する。第5話「エスパーニャンコ」の一松、第9話「恋する十四松」の十四松などで描かれた彼らの“人間的”側面だ。
レイヤーBとレイヤーB'が重なることで、六つ子は、ドラマを担うラウンドキャラクターとなる。ラウンドキャラクターとは、類型的なフラットキャラクターと対になる概念で、ドラマを通じてそのあり方が変わっていく立体的なキャラクターのことを指す。
フラットキャラクターはその類型故に、視聴者・読者の感情移入を誘う力は弱い。むしろマスコット的な距離感で愛されがちだ。でもラウンドキャラクターは、その心のあり方が実際の人間に近づくから、視聴者・読者はぐっと共感的にキャラクターの言動を見守ることになる。第24話『手紙』は、シリーズを通じてポイントポイントで描かれてきた、ラウンドキャラクターとしての六つ子の“最終回”であった。

一方で、第8話「なごみのおそ松」、第13話などの「じょし松さん」、第14話「チョロ松先生」、第15話「面接」といった、レイヤーBで示された類型を、六つ子ではない別設定に落とし込んでいるレイヤーCがある。このレイヤーCは、レイヤーBで決定付けられた六つ子を「演者」として扱う階層で、ここが一番、コントらしい。

レイヤーDは、パロディの階層。六つ子という設定をギリギリ残してはいるが、むしろパロディのネタ元のほうに寄り添っているもの。第1話「復活!おそ松くん」や第11話「クリスマスおそ松さん」、第16話「松野松楠」に登場するF6ネタが代表選手だろう。ここまで来ると、レイヤーA、レイヤーBからかなり遠くなっている。

そしてレイヤーEが、「六つ子のいる世界」の“外側”を感じさせる、メタな視点で六つ子という存在をとらえる階層。第13話「実松さん」がこれに相当する。第7話「ダヨーン相談室」もここに含め手もいいかもしれない。
 このようにAからEまで6つのレイヤーが重なって出来上がっているのが『おそ松さん』に登場する六つ子像なのだ。視聴者は、エピソードが始まるまで、どのレイヤーが示されるかわからない。この緊張感が作品の魅力を増していたことは間違いない。

ここまで複雑にキャラクターを構成するレイヤーを重ねらた理由こそ、『おそ松さん』がアニメだからだ。
たとえば生身の人間が演じるコントで、「演者」の存在は絶対だ。だから、『おそ松さん』でいうと、演者をラウンドキャラクターとして立てるレイヤーB’は存在しないし。パロディを演じても自らの存在を消せないからレイヤーDのようにもならない。全体をメタ視するレイヤーEも、やってやれないことはないが、それもまた「作りもの」であるという意味で、コントの外側に出ているとは言いづらい。『おそ松さん』ほど多層のレイヤーを重ね合わせることができないのだ。
(このあたりのレイヤー構造の複雑化に挑戦したのがテレビ東京のコントドラマ『SICKS~みんながみんな、何かの病気~』や、映画『大日本人』のラストのコントであろうと思うのだが、それは別の話題になるので触れない)。

アニメには「所詮描かれた絵であること」と「その絵を本物だと信じさせて成立していること」の二面性がある。レイヤーの多層化が可能になったのは、そのアニメならではの二面性をうまく利用して、さまざまな階層の六つ子をどれも「本当の存在」「同一のキャラクター」と視聴者に思わせたからだ。「アニメによるコント」がおもしろいことの本質=手品の種はここにある。
ちなみにレイヤーというならば、キャストのレイヤーも当然ながら存在する。だが、『おそ松さん』では、たとえば『男子高校生の日常』のようキャラクターのレイヤーの上にわざとキャストのレイヤーを重ねることで、生っぽい笑いを生もうとするアプローチ(参考:http://www.p-tina.net/animenomon/434)はなかった(これはキャストと熱演が招く笑いとはまた別の問題なので誤解しないでほしい)。昨年末にはキャストによるコメンタリー放送が行われているが、これも、作品に重ねられたレイヤーではあるが、決してキャラクターの上に重ねられ、キャラクターの幅を広げたわけではない。自由そうに見えて、この声とキャラクターのきっちりと一線を守っている関係もまた『おそ松さん』のポイントと思われる。

以上のように『おそ松さん』のキャラクターを構成するレイヤー構造を考えて見ると、最終回「おそまつでした」の極めて普通? のギャグアニメぶりというものがとても妥当なものだったことがわかる。つまり、シリーズを通じてさまざまなレイヤーをいったりきたりして視聴者を翻弄した本作だったが、、「でもまあ、この作品のよって立ってるところは結局レイヤーBだよね」と、作品のホームポジションへと戻ってきたというわけなのだ。

そういう意味で、酔い覚ましの水のような味わいの最終回だった。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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