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【プロの添削】よいアニメレビューを書くには? ~藤津亮太のアニメ文章道場~

アニメレビューの書き方をアニメ評論家・藤津亮太さんにお聞きしました。読者様による応募原稿を添削いただきつつ、具体的なノウハウを解説してもらいました。

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【プロの添削】よいアニメレビューを書くには? ~藤津亮太のアニメ文章道場~
  • 【プロの添削】よいアニメレビューを書くには? ~藤津亮太のアニメ文章道場~
  • 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(C)創通・サンライズ
  • 『プロメア』(C)TRIGGER・中島かずき/XFLAG
  • 『君の名は。』メインビジュアル(C)2016「君の名は。」製作委員会
  • 『天気の子』(C)2019「天気の子」製作委員会

■作品添削その2:『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』レビュー記事


――では次の原稿を見てみましょう。大野和寿さんの『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のレビューです。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(C)創通・サンライズ
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(C)創通・サンライズ

※『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』:1988年公開の富野由悠季監督による劇場用作品。79年放送の『機動戦士ガンダム』から連なる主人公アムロと宿敵シャアの戦いの決着が描かれた当時のシリーズ集大成的作品。2人の対決が地球全体を破滅と救済に誘う衝撃的な結末は議論を呼んだ。



    映画【機動戦士ガンダム逆襲のシャア(以下、逆襲のシャア)】は、他の【ガンダム】の名を冠する作品群同様、一作目の【機動戦士ガンダム】とは、何の関係もない作品である。
    無論アムロやシャアといった【機動戦士ガンダム】に出ていたキャラクターが【逆襲のシャア】には確かに登場する。
    しかし彼らは、名前以外、一作目の【機動戦士ガンダム】に出ていた同名の人物たちとは、中身は全然違うキャラクターなのだ。
    だから、一作目の【機動戦士ガンダム】の続きだと思って、【逆襲のシャア】を見ると、強烈な違和感を覚える。
    【逆襲のシャア】には、【機動戦士ガンダム】が持っていた、例えばただの敵かと思っていたジオンにもそれなりの言い分や正義が在るという、豊穣なフィクションの劇空間が、【逆襲のシャア】には、無い。
    それ故【逆襲のシャア】をひとめ見て、これは面白い映画だ、楽しかったという有り体な感動は、得られない。
    だが他方【逆襲のシャア】には、いつまでも同じ過ちを繰り返し続ける悲しい人間模様、腐りきった官僚主義、分かりあいたいのに分かりあえない様々な人々といった、現実世界に生きる我々と、同じ種類の苦悩を抱いた人間たちが、克明に描かれている。
    そして劇中、その登場人物たちの苦悩は、実社会に生きる我々と同様、解決されることはなく、苦い事態として描かれる。
    【逆襲のシャア】を見て観客が思うこと。それは、
    「これは現実だ。現実を劇映画で見せつけられた」
    ということだ。
    【逆襲のシャア】は、だから面白いのか、だから面白くないのか。
    答えは未だに出てない。
    だが公開後32年以上も、あれこれ考えることを思い付ける映画は結果としてやはり面白いのだ、と言うしかないのか。ないのかもしれない。


――短くてパンチの利いた原稿ですね。藤津さん、いかがでしたか?

藤津:面白いですね。「『逆襲のシャア』にはあれが無い」「これが無い」「だがこれがある」という、無い、無い、あるという構成がキマっています。「ガンダムを見に行ったら現実を見せつけられた」というのは『逆襲のシャア』という作品の魅力の一つなので、その切り口もいいですね。

手直しするとすれば、「『これは現実だ。現実を劇映画で見せつけられた』ということだ。」をオチに据えることを見越して、冒頭はそれに呼応するものにする必要があります。

また「同名の人物たちとは、中身は全然違うキャラクターなのだ。」の部分は、敢えて強めに書いているということは分かるのですが、その趣旨が伝わるよう多少のフォローはしておいた方がいいでしょう。

――設定上は紛れもなく過去作と同一人物ですもんね。それでは藤津さんの添削の過程を見てみましょう。

    『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』はおもしろいのか、おもしろくないのか。
    『逆襲のシャア』は『機動戦士ガンダム』から数えてシリーズ第4作。第1作に登場したアムロとシャアが十数年の時を経て再び中心人物となって登場する。しかし『逆襲のシャア』は、そのほかの『ガンダム』を冠した作品群と同様、最初の『機動戦士ガンダム』とは何の関係もない作品と考えたほうがいい。


藤津:1アイデアで押している原稿なので、そのアイデアが効果的に機能するように頭に掴みをつくりました。その後の作品説明は元原稿ではかなりとばして書いている感じですが、ここは若干丁寧に説明を入れました。

なお、作品表記のカギカッコは一般的な出版のルールに基づいたものに変えてあります。

    『逆襲のシャア』に登場するアムロとシャアは、第1作『ガンダム』に出ていた同名の人物たちとは、その内面が全然違うのだ。アムロは、内向的な性格でありながら、それでも一歩を踏み出そうとする普通の人物ではなく、類まれな戦闘力を持ち、逡巡なく引き金を引けるエースパイロットになっている。シャアは、野心を胸に秘めたクールな悪役ではなく、アムロに勝てないコンプレックスを滲ませる中年になっている。いくら作中で年月が経ったからとはいえ、変わり過ぎではないか。だから第1作『ガンダム』の続編だと思って見ると、強烈な違和感がある。


藤津:このブロックで前の段落で投げかけた「関係ない作品」の理由を説明し、どうして同一人物ではないのか、という点について具体的に書き足してみました。「作品間で時間が経ってるんだから性格も変わってて当然だろう」という反論を見越した上で、書き手の立ち位置も補強してあります。

    結果として『逆襲のシャア』には、ただの敵かと思われたジオンにもそれなりの言い分や正義が在るという、フィクションならではの豊穣な劇空間がない。それ故、『逆襲のシャア』を見ても、「これはおもしろい映画だ」「楽しかった」というストレートな感動は、得られない。


藤津:前のブロックを受けての結論で、実質的に「おもしろくない」の理由の説明です。ここはほぼ元原稿のママです。

    その代わり『逆襲のシャア』は、いつまでも同じ過ちを繰り返し続ける悲しい人間模様、腐りきった官僚主義、分かりあいたいのに分かりあえない様々な人々、などを克明に描き出す。それは現実世界に生きる我々と同じ種類の苦悩で、だからこそ登場人物の苦悩は、現実世界に生きる我々と同様、解決されることはない。


藤津:ここもほぼ元原稿のママです。ただ「だが他方」より「その代わり」のほうが、「ない」ものの代わりに「ある」ものもある、という論旨を強調するので、接続する部分を書き換えています。

    『逆襲のシャア』を見て観客は思う。
    「これは現実だ。現実を劇映画で見せつけられているのだ」


藤津:ここが大事なところなので、台詞を強調するため、文章の中に入れず、独立させました。

    『逆襲のシャア』という作品は、だからおもしろいのか、だからおもしろくないのか。
    公開から32年が経過した今も、答えは未だに出ていない。だがそれほどに長い時間が経っても、なお、あれこれと『逆襲のシャア』について考えてしまうということは、結果としてやはり「おもしろい」といわざるを得ないのか。しかし、そうやって素直に承服するのも難しい自分もいる。


藤津:冒頭の投げかけをここで回収します。元原稿のオチなので、そこはそのままです。ここまで悩んでいるのだから、そのまま「おもしろい」で納得しかけるのもつまらないと思い、最後に一文付け加えました。ここで書き手=自分が出てきてしまいますが、読者が書き手の理屈に納得できるぐらいにはちゃんと説明がされているので、これぐらいちょっとだけ「自分」が出ても違和感は少ないかなと判断しました。あるいは「そうやって素直に承服してはいけないような気もしている。」と自分を省いて書いてもいいかもしれません。

――続いて、修正原稿を通しで読んでみましょう。

    『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』はおもしろいのか、おもしろくないのか。
    『逆襲のシャア』は『機動戦士ガンダム』から数えてシリーズ第4作。第1作に登場したアムロとシャアが十数年の時を経て再び中心人物となって登場する。しかし『逆襲のシャア』は、そのほかの『ガンダム』を冠した作品群と同様、最初の『機動戦士ガンダム』とは何の関係もない作品と考えたほうがいい。
    『逆襲のシャア』に登場するアムロとシャアは、第1作『ガンダム』に出ていた同名の人物たちとは、その内面が全然違うのだ。アムロは、内向的な性格でありながら、それでも一歩を踏み出そうとする普通の人物ではなく、類まれな戦闘力を持ち、逡巡なく引き金を引けるエースパイロットになっている。シャアは、野心を胸に秘めたクールな悪役ではなく、アムロに勝てないコンプレックスを滲ませる中年になっている。いくら作中で年月が経ったからとはいえ、変わり過ぎではないか。だから第1作『ガンダム』の続編だと思ってみると、強烈な違和感がある。
    結果として『逆襲のシャア』には、ただの敵かと思われたジオンにも、それなりの言い分や正義が在るという、フィクションならではの豊穣な劇空間がない。それ故、『逆襲のシャア』を見ても、「これはおもしろい映画だ」「楽しかった」というストレートな感動は、得られない。
    その代わり『逆襲のシャア』は、いつまでも同じ過ちを繰り返し続ける悲しい人間模様、腐りきった官僚主義、分かりあいたいのに分かりあえない様々な人々、などを克明に描き出す。それは現実世界に生きる我々と同じ種類の苦悩で、だからこそ登場人物の苦悩は、現実世界に生きる我々と同様、解決されることはない。
    『逆襲のシャア』を見て観客は思う。
    「これは現実だ。現実を劇映画で見せつけられているのだ」
    『逆襲のシャア』という作品は、だからおもしろいのか、だからおもしろくないのか。
    公開から32年が経過した今も、答えは未だに出ていない。だがそれほどに長い時間が経っても、なお、あれこれと『逆襲のシャア』について考えてしまうということは、結果としてやはり「おもしろい」といわざるを得ないのか。しかし、そうやって素直に承服するのも難しい自分もいる。


――前作との違いや『逆シャア』ならではの魅力の説明がよりクリアになったように感じます。

藤津:「この映画は現実だ!」という大野さんが提示した作品の魅力を引き立てるために、冒頭で「『逆襲のシャア』は面白いのか、面白くないのか」という疑問を投げかける形にしました。

問いはレビューのテーマを伝えるためのものですので、それが上手くいっていれば問いの答えはどちらでも構わないと思います。

――謎が謎のまま終わることを強調した修正後の結論部分は、まさに『逆シャア』を彷彿とさせますね。


→次のページ:作品添削その3:『君の名は。』レビュー記事
《いしじまえいわ》
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