高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第2回 3DCG/2D手描きアニメにおけるビジュアルを巡る冒険 2ページ目 | アニメ!アニメ!

高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第2回 3DCG/2D手描きアニメにおけるビジュアルを巡る冒険

高瀬司さんの新連載。様々なアニメを取り上げて、バッサバッサ論評します。毎月第3金曜日連載予定。

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現在、線と色の探求は、アニメのビジュアルをめぐる両輪と言えるものである。
3DCGを例に取るのがわかりやすいだろう。3DCGアニメは、ゲームを中心的な舞台に不気味の谷底から登りはじめて久しいフォトリアル系と、ピクサー、ディズニー、ドリームワークスなどのアニメで馴染み深い非フォトリアル(デフォルメ)系とに大別される。
そのなかで、日本においてガラパゴス的に発展を遂げているのが「セルルック3DCG」だ。いまさらな説明にはなるが、トゥーンシェーディングによって、色の情報量(階調)が平面的に縮減されるほか、特に輪郭線が付与されるなど、2D手描きアニメに寄せたルックへとレンダリングされた3DCGのことを指す。具体例としては、『009 RE:CYBORG』や、『蒼き鋼のアルペジオ』シリーズ、『シドニアの騎士』シリーズ、『楽園追放 -Expelled From Paradise-』などのタイトルを思い浮かべてもらえばいい。

こうした日本におけるセルルック3DCGの隆盛には、2D手描きアニメパートとの親和性ゆえに同一ショット/シーン内に共存しやすいといった合理性のほか、真っ向勝負のむずかしいビッグバジェットの米国製3DCGアニメとの、作風における差別化を意図した国際的ブランディングなどの狙いが挙げられるが、何より日本人が(アウトラインの不在もあり)3DCGに違和感を覚えやすいからという、慣習の問題が最大の理由とされてきた。
特に日本のサブカルチャーには、アウトラインを中心に成り立つ(カラーのアメリカン・コミックスやバンド・デシネとも異なる)モノクロのマンガ文化という基盤がある。じじつ「漫画映画」という出自を持つアニメの、その制作者たちの口からは幾度も、輪郭線(およびそのタッチ)という現実には存在しない虚構を欲する理由として、マンガにおける描線の多様性への羨望が語られてきた。

しかしいま、そうした人々のアウトラインへの信仰は、目に見えて薄れはじめているのではないか。
先に挙げたゲームにおけるハイクオリティなフォトリアル系3DCGおよび非フォトリアル系3DCG、ニコニコ動画におけるMMDなどの3DCG映像、pixivやライトノベルにおけるデジタル作画を駆使したキャラクターイラストレーション――。アニメに限っても、『プリキュア』シリーズのEDダンスの歴史もあれば、『アナと雪の女王』や『STAND BY ME ドラえもん』など非フォトリアル系3DCG作品もメガヒットを飛ばしている。つまりアウトラインのない(ないし弱い)、質感(色彩)の情報量が多い、従来のアニメ的ビジュアルとは異なる関連コンテンツ群が世のなかに溢れ、そして(商業的な成功もともないつつ)十分に慣れ親しんだ表現として受け入れられている。

3DCG/イラストレーション的なルックの波は、TVシリーズにおいても急速な広がりを見せている。
たとえば前クール(2015年夏クール)であれば、『To LOVEる ダークネス 2nd』の第1話から第3話にかけては、色のついた主線(色トレス)を基調にした輝度・彩度の高いキャラクターたちの姿がまるで3DCGのように写ったろうし、なかでもビジュアル面での挑戦が目立って過激だった作品といえばもちろん、平尾隆之監督作『GOD EATER』が絶対に外せない一作として挙げられるだろう。
2007年の『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』で、いまでは当たり前の効果ながらも当時としては極めて先進的であった髪の毛のグラデーションを多用するなど、ビジュアルの革新に挑みつづけてきた制作スタジオufotableが、今度は厚塗り調――油彩やアクリルガッシュといった不透明な画材を塗り重ねて描いたような重厚感のある彩色――のルックに挑んだ野心作であった。そのビジュアルは、一般的なアニメのルックとは一線を画す、3DCGやイラストレーションがそのままアニメイトされているかのような表情を見せた。そして何より、『GOD EATER』のコンポジット・ディレクターは、『G-レコ』でテクスチャの油彩処理を提案した脇顯太朗である。

つまりいま進行しつつあるのは、3DCGでの2D手描きアニメ的テイストの取り込み(セルルック)がより一層洗練されていくと同時に、2D手描きアニメがデジタルツール/ソフトの進展に後押しされるかたちで、3DCGをはじめとしたアニメとは(技術的にも)異質なものと考えられてきたトレンドに乗ったビジュアルを模索しはじめるという運動である。
そしてそのとき、線と色(質感)は並んで議論の俎上に載ることになる。3DCG的なビジュアル(線を弱くし質感の情報量で描く)が強まることは、そのまま直接、2D手描きアニメ的なビジュアル(線のタッチで描く)を問い直す思考につながるはずだからだ。そもそも、便宜上対比を軸に見てきたが、この二方向の流れはともに――少なくともセルルックの延長線上で3DCGアニメのビジュアルが模索される当面のあいだは――同一作品のなかに共存して描かれる要素でもあるだろう。
『G-レコ』をめぐるこの興味深いインタビューはまさに、この両輪の運動を素描するものでもあった。

であるとすれば、その探求のなかで浮かび上がる課題も、『G-レコ』で語られた線の問題と通じるものになるのだろう。
つまり、特別なスタッフィングによって可能になる特別な映像としてではなく、より汎用的なかたちでビジュアルの多様性を実装すること。その点では、新房昭之監督とシャフトによる、いわば「工学的にシステム化されたプリプロダクションが支える生産形態」とでも言うべき特異な制作スタイルがすでに、そのひとつの解答例を体現しているのかもしれない。

ビジュアルにおける情報量の増加、コンポジットによるフィルタワークやレンズ効果、特殊効果の過剰さは、審美的な観点からはむしろ、身の丈に合わない厚化粧と見なされがちだろう。それよりも緩急をわきまえた情報量の適切な配置や、研ぎ澄まされたシンプルさが、どのジャンルにおいても品が良いとされ玄人受けしやすい傾向にある。
しかし、たとえ不器用さが目立つことがあっても、ビジュアルの探求を無視する気にはなれない。いま現在を含め、過渡期における3DCGアニメの表現レベルを笑うことがナンセンスな振る舞いに思えるように、ビジュアルの変遷と、それがアニメにもたらす可能性の側にこそ注視していくべきだろう。
《高瀬司》
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