その後1987年になると、またもやアメリカ人のアーティストによる『アストロ・ボーイ』が『ジ・オリジナル・アストロ・ボーイ(The Original Astro Boy)』という題名で出版される。版元は、当時のアメリカのコミックスの白黒ブームに乗って、白黒の作品を多く出していた新興出版社ナウ・コミックス(Now Comics)社。(ただし、ナウ・コミックス版『アストロ・ボーイ』はカラー作品。)これは(旧)虫プロダクションの倒産した後、アメリカにおける『アストロ・ボーイ』の権利を巡って起きた混乱の最中に出版されたものであり、手塚自身の承諾を得たものではなかった。(アメリカにおける『アストロ・ボーイ』の権利に関する法的問題は、90年代後半になって解決した(1)。)
しかし、ナウ・コミックス版の出た1987年には、『アストロ・ボーイ』が日本で生まれたことは既に意識されていた。アメリカのコミックス情報誌「コミックス・ウィーク(Comics Week)」の1987年7月号は「アストロ・ボーイ」の絵を表紙で大きく取り上げ、同年から本格的に出版が始まった日本マンガについて、「日本侵略 (The Japanese Invasion is Now)」と題する特集を組んでいる。そして特集の記事で『アストロ・ボーイ』コミックス出版のニュースを驚きをもって伝え、その理由について、熱心な『アストロ・ボーイ』ファンはいるものの、既にそのファンも皆30歳を超え、徐々にその人気も下降しているからと述べた(2)。
1983年に出版されたアメリカにおける日本マンガについての最初の研究書『マンガ!マンガ!日本マンガの世界(Manga!Manga! The World of Japanese Comics)』(Kodansha International, 1983)で、筆者であるショット氏は、日本のマンガが英語圏で受け入れられるのは至難の業だと述べている。その理由は、右開きと左開きの違いや日本マンガに独特な記号(鼻血を出すことが性的に興奮していることを示す等)等、形式や表現方法に加え、内容が日本特有の文化や論理で成り立っているからだと言う(3)。