そして、最後に残った第3番の質問。「『風立ちぬ』は扱っている題材に比して、、葛藤するシーンがすごく少ないのが特徴だ、というのはわかるよね」Nも頷いた。「それはなぜか考えて見ると、結局、この世のあり方に矛盾や葛藤があるのは、当たり前のことだからなんだよね。当たり前のことだから、ことさら強調して描かない。そういうものがあってもLife goes on。だから『生きて』が映画の締めになるわけで。だから菜穂子の恐れや戸惑いも描かれてないわけで……」と言いかけると、Nがかぶせてきた。「ううん、ううん。それはわかるの。それはわかるけど、なんて言えばいいのかな……、それって達観しすぎじゃないってこと。だから菜穂子は、ずいぶん高いところに祭り上げられているように見えるなぁって」「達観しすぎかぁ」「菜穂子はあんなに若いんだもの。もっとあがけばいいのよ。例え必ず死ぬとわかっていても、それをがんとして受け入れずに、拒む強い意志というものだってあるんじゃないのかしら。だって、言ってしまえば運命の人と出会ったのよ。それなら、エゴといわれようと、きれいな時の自分だけじゃなくて、丸ごとの自分を自分の人生を二郎にしっかり刻み込もうとしてもいいんじゃないかしら」「でも、この映画では、そうじゃない人間を描きたかったわけでしょ?」「そうなんだけど、だから余計にもやもやするのよ。……なんていえばいいのかな、こう、特攻隊の人が、さまざまな葛藤を押さえ込みながら、故郷にすごく落ち着いた手紙を書いていたりするでしょう。ああいうのと同じ匂いがするのよ」「うーん、匂いねぇ。……『ふしぎの海のナディア』で、死んでいくキャラクターが、最後に覚悟を決めていいことを言うんだけれど、土壇場で『死にたくない!』って叫ぶシーンがあるんだよね。Nはそういうほうが納得がいくと」「うーん、ちょっと違うんだよなぁ。そういう描写が絶対必要っていうことを主張したいわけでもないの。違和感をたどっていくとそこにいくのは間違いないんだけれど」Nはしばし考えているようだったが、考えながら口を開き始めた。「そうね。たとえばさっきSが、Life goes onといったじゃない。そうやって、本質を言い表そうとする瞬間に、そこに流れてる血みたいなものが抜け落ちた気がするのよね。たとえば、仏教とかで『色即是空』って言うじゃない。」突然、仏教がでてきて僕は「?」となった。「この言葉は、『この世にある一切の物質的なものは、そのまま空(くう)である』という意味だっていう、まあ、本質?を凝縮して言い表してるといわれているわけで。だから、そこに“この世界の真実”を見て胸を打たれる人もいるわけでしょう。でも、でも、目の前のものが空である――因と縁によって存在しているだけで,固有の本質をもっていない――とポンといわれても、にわかにはついていけないじゃない。それは『色即是空』って言葉を生んだ視点が、ものすごくこの世を達観したところから見ているからで」「まあね」僕はNの言葉を追いながら、ゆっくりうなづいた。「『風立ちぬ』もそうなのよ。達観した視点から見通すことで、「これが人生だ」「Life goes on」みたいなところまで、人生の本質を凝縮しちゃってるわけ。それはまるで、お経の言葉みたい。ありがたいけれど、私にはちょっと達観しすぎて、フリーズドライになっているというか、圧縮ファイル化されているというか、そういう感じだったのよ。私の菜穂子への違和感ってのは突き詰めていくとそういうことなのかなって、今思った」「それはNが若いからだろうね」「そうなのかしら」「たぶん、そう。70歳ぐらいになって見たら、菜穂子の評価もまた変わってたりするかもしれない」Nは「そうかもねぇ。でもそれはその年まで生きていたら考えるわ」と答えて、あっという間に立ち去っていった。僕は心の中で「君は生き延びることができるか」とつぶやいた。
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