貴種流離譚として読み解く「KUBO/クボ」の物語構造 藤津亮太のアニメの門V 第29回 | アニメ!アニメ!

貴種流離譚として読み解く「KUBO/クボ」の物語構造 藤津亮太のアニメの門V 第29回

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第29回目は、映画『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』のストーリーの構造分析を通じて、魅力を掘り下げます。

連載 藤津亮太の恋するアニメ
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※この原稿は、『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の重要な部分に触れています。予めご了承下さい。



アニメーションは神話と相性がよい。記号化されたキャラクターを通じて語られる物語は「具体性」と同時に、くっきりとした「象徴性」を兼ね備えることができるからだ。

『コララインとボタンの魔女』や『パラノーマン ブライス・ホローの謎』で知られる制作会社ライカの長編第4作『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』はまさに、そうしたアニメーションの特性が生きている作品だった。今回は日本の昔話に通じる世界を題にとったからだろう。特にその要素が感じられる一作となっていた。

主人公のクボは片目だ。それは彼の祖父にあたる月の帝が、彼の左目を奪ったからだ。クボと心身に不調を抱えた母は、村外れの岬に住んでいるが、月の帝の娘である闇の姉妹は今もまだクボを狙っている。

本作は貴種流離譚の一種といえる。
貴種流離譚は、尊い血筋に生まれた主人公が、親から疎んじられるなどの理由で放浪の旅に出て、試練を経験し、英雄となるという神話などに見られるひとつの物語の形である。
本作ではその“親”の位置に祖父・月の帝がいる。月の帝は愛を知らない。だが、月の帝の娘のひとりは、ハンゾウと出会い愛を知り、クボを産んだ。ハンゾウは月の帝と戦い破れ、母は片目となったクボを連れて出奔した。貴種流離譚の「疎んじられ放浪のたびに出る」という部分が、母とクボの2代にわたる物語に置き換えられているのである。
また、貴種流離譚では放浪する主人公は、卑しい身分の女性や牝の動物に育てられるという展開も見られる。これは、母が死ぬ際にサルのお守りに命を吹き込み、クボの旅の共とした展開にきれいに合致する。

本作の特徴は、貴種流離譚の根幹にある父・子の対立構造を踏まえつつも、祖父・親・子供の三世代の物語になっているところにある。そのため、「月の帝のもとから逃げ出すが、やがて再会する」という月の帝を基準にしたストーリーの中に、「親と別れて旅をして、やがて親と再会する」という親を基準にしたストーリーが入れ子構造になっている。

月の帝を基準にすると、これは「試練を経た英雄が悪しき王と対峙する」物語となる。では、何を根拠にしてクボは王と向かい合うことができるのかといえば、「一度失った両親と旅の果てに再会する」という過程を経て、クボが愛を知るからである。貴種流離譚の「放浪の中の試練」が、この両親とのエピソードに相当するのである。

クボは一方的に月の帝に片目を奪われるという徴をつけられたが「愛を知らない」世界に属していたわけではない。だが一方で、母の心と体が傷ついてしまったために、十全に「愛を知っている」わけでもない。不調を抱える母に存分に甘えられない寂しさ、父の思い出を持たない欠如感が彼の心の中にある。
つまり物語の最初の段階で、クボは自分がなにに寄って立つべきかを知らない存在なのである。その空白を埋めるのが旅のお供となったサルと、途中で出会った元サムライのクワガタの存在だったのである。

この中盤の3つの武具を探す旅の間、ドラマ的な推進力は若干弱まる。だが、見終わってみると、ここはストーリーの先へと興味を繋ぐ部分ではなく、サルとクワガタとクボの関係を積み上げていくところこそが見せたいものだったということがわかる。そして、物語の終盤でサルとクワガタの正体が明らかになる。
サルは実は母が死の間際に作り出したいわば化身であり、記憶を失いクワガタの姿に変えられていたサムライは、父ハンゾウその人であったのだ。クボは、旅の中で「(それまでしたことがなかった)二人に挟まれて食事をする」という体験をする。それがクボの心の中に欠けていたものを埋め、そこでついにクボの生き方が定まることになる。旅の目的である武具よりも、このことがクボを強くする。

かくして試練を経て愛を知ったクボは、愛を知らない月の帝と対峙することになる。
そして、本作が本領を発揮するのは、実はこの終盤からである。
月の帝はクボに対し、天上界には死が存在せず、故に愛も存在しないと語る。それに反論するクボ。
物語がいつか終わるように、人生にもまた終わりがある。だがその人生は、物語となって生きている人々に受け継がれていくのである。そこにあるのが愛である。そのようなことをクボは語る。

本作は冒頭から、クボのボイスオーバーによるナレーションを通じてこの作品が「物語ること」をめぐる映画であるという姿勢を示していた。その一方で、ストーリーは「愛を知るもの/知らないもの」の対立という形で進行してきた。それが、このクライマックスで、きれいにひとつに重なるのである。
しかも、クボがようやく理解した「愛=人生=物語」という構図は、誰の心にもある(村人たちの心の中にもある)ものであることが、先祖の霊を迎える“お盆”の習慣を通じて、クボという個人の枠を越えた普遍的なものとして示される。
そして、その3つの結節点として登場するのが、クボがずっと愛用してきた三味線である。そもそも三味線が登場する作品なのに、タイトルがどうして「二つの弦(原題にもtwo stringsとある)」となっているのか。その疑問がクライマックスで明らかになる。

全ての弦が切れてしまった三味線を手にしたクボは、母の形見である髪の毛、そして父の形見である弓弦を三味線に貼るのである。つまり二つの弦とは、クボを愛しながら死んでしまった両親の人生そのものことだったのである。そしてクボは、自らの髪の毛を抜いて、最後の一弦とする。
父の人生があり母の人生があり、だから自分の人生がある。そしてそれぞれの弦の間で響き合うのが愛なのである。それがここで極めて端的にビジュアルとして示されるのである。

ここまでクボという少年の「具体性」にフォーカスしてきた映画が、ここでぐっと「象徴性」を帯びる。この象徴性によって、クボの物語は、クボの物語であるという枠を超えて、「物語の形で語られたこの世の理」という側面を持つようになる。それはつまり「神話」への接近だ。
ライカのこれまでの長編は、ファンタジックな要素を持ちながらも「現実」を舞台にすることが多く、それゆえに、現実を照らし返すような物語が多かった。それが今回は、日本の昔話のような世界を題にとったことで、ぐっと「神話」に近づいたという点は興味深い。

さて、では全く相容れない価値を持つ月の帝とクボの戦いはどう描かれたか。
『パラノーマン』で「恐怖に支配されて相手を否定することの愚かしさ」を正面から描いたスタッフは、本作でも「価値観の違う相手を倒して終わり」という結論は出さなかった。
月の帝は、記憶を失い、物語冒頭のクボと同様に、どこに寄って立つべきかわからない人間として再生する(愛を知らない月の帝は両目が盲目であったが、再生するとクボと同様、片目だけが見えるようになっている)。そこに村人が声をかける。村人が語るのは「彼にはこうあってほしい」という「彼らが思う愛ある人物の姿」である。人間となった月の帝は、そんな人々に囲まれて、おそらくこれから愛を知っていくのだろう。

本作はこのようにして、人生の意味を描き出した。その点において、本作は現代人にとっての「神話」であると思う

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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