映画評 『東のエデン 劇場版II Paradise Lost』 | アニメ!アニメ!

映画評 『東のエデン 劇場版II Paradise Lost』

レビュー 実写

文; 氷川竜介(アニメ評論家)

 テレビシリーズ11話、劇場版1本と長尺を積み重ねてきた『東のエデン』も、ひとまずこの劇場版の後編で完結となった。「日本を救うために百億円を与えられたらどう使うか?」というセレソンゲームは、滝沢朗と森美咲の帰国により、一挙に最終段階へと向かう。「滝沢は王様になれるのか」という未来と「滝沢とは何者だったのか」という過去が対置される中で、さまざまな人びとがうごめくことで、ゲームの勝敗の行方と黒幕があぶり出されていく。
 劇場用映画でありながらアクション等の娯楽要素はかなり控えめで、ストーリー的にも終結へと向けて広げた大風呂敷をたたもうとする性急さは否めない。「お金を使うこと」と「お金をもらうこと」の対比から浮かぶセレソンゲームの真意は痛快だが、主張のいくつかはシュガードリーム的で、手厳しい批判にさらされる可能性が高いとも思った。しかし、そうしたアンバランスさを越えた、ひたむきさが伝わってきたことも事実である。きれいに整合させ過ぎて小さくなるより、収まりきれないほど大きな想いがあるということが確認できただけでも、この作品につき合ってきて良かったと感じた。

 実際に「今回でお別れか、寂しいな」という想いが去来したのは、自分でも意外だった。それは、登場人物それぞれの活躍を通じてにじみ出る魅力に触発されたものだ。実にユニークなバックグラウンドをもち、個性豊かな人物像は、生身をもたないアニメキャラクターなら当然ではある。だが、終局にあたる後編では、そうしたテクニック論を越えた「いのち」がキャラに宿ったように感じられる瞬間が何カ所かで訪れた。その頂点にあたるのが、咲がクライマックスで滝沢に対してとる行動である。そこに確実に存在する感情の高揚を心の共鳴として感じとれるかどうかで、本作の評価は大きく分かれるはずだ。
 そう、キーになる言葉は「変化」なのだ。映画を観ている最中、何でもないシーンでふと「みんな変わったなあ」という想いが脳裏をよぎり、少しだけ目尻が潤んだ。「同じようなシチュエーションにおかれたら、自分もあんな行動がとれるのか」という類の想い。こうした感情移入は幾多の「謎解き」よりも主張よりも、観客にとって重要なことだと思う。映画は論文ではないのだから……。

 さて、エンディングで主題歌が流れても、絶対に席を立ってはいけない。エピローグがついているからだ。そこでさらに広げた風呂敷がひとつ畳まれるが、最後のそのまた最後で筆者は「何だって?」と耳を疑い、激しく動揺したのであった。直後に神山監督の取材があったので、速攻で真意を尋ねたが、当然のように笑みしか戻ってこない。予想どおりの反応だ。だが、神山監督の映画に意味のない言葉や映像はあろうはずがない。
 剣術も達人となれば、相手に斬られたことを気づかせないないほどの技を使うという。そうだ、またも神山監督にしてやられてしまったのだ。このように、映画が終わっても現実世界は決して終わらない。観客の側に投げ返された物語は、永遠に続いていく。「お客さんなら、百億円をどう使いますか?」という問いかけとともに。そして、意味を検証し直さなければならないヒントも山のように与えられ、目の前に残った。自分ならどうするのか、自分はどう変われるのか。そんな想いを胸に、また第1話からリプレイを楽しむのも悪くないなと、今では思っている。

『東のエデン』 公式サイト /http://juiz.jp/
《animeanime》
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