「クスノキの番人」「閃光のハサウェイ」「超かぐや姫!」―それぞれの作品の“立ち位置”を探る【藤津亮太のアニメの門V127回】 2ページ目 | アニメ!アニメ!

「クスノキの番人」「閃光のハサウェイ」「超かぐや姫!」―それぞれの作品の“立ち位置”を探る【藤津亮太のアニメの門V127回】

1月下旬に相次いで公開・配信された長編アニメーション3作品――『クスノキの番人』『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』『超かぐや姫!』――は、「語る」と「魅せる」のバランスが、皆それぞれに異なっている。そして皆それぞれに魅力的に出来上がっていた。  

連載 藤津亮太のアニメの門V
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『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』は、3部作の第2作目。本シリーズは、反連邦政府組織のリーダー・マフティーとして活動するハサウェイ・ノアの物語で、今回の第2作目はヒロインであるギギ・アンダルシアの心境の変化も重要な要素として描かれる。  

本作は、冒頭の「砂煙が巻き上がる中で戦闘を撮影した動画」から始まり、ラストが「夜から次第に未明へと変化していく中での戦闘」で締めくくられる。この「見える/見えない」の綱引きによって生まれるルックは前作に続き本シリーズの特徴といえる。  

さらに第2作の今回は、潜水艦の存在がキーになるほか、客観と主観の使い方など、ルックだけにとどまらず、さまざまなレイヤーにおいて「見える/見えない」がポイントとなった作りになっている。そして本作の「語り」は、この「見える/見えない」の延長線上に位置づけられる。  

まず本作には、登場人物が歩いているカットがとにかく多い。部屋に入る、部屋から出ていく、階段を登る降りる、廊下を歩くなどなど。これによってその空間がリアリティや存在感をもって迫ってくる。ここで描かれているのは、客観的に「見える」空間である。  

この「客観的に見える光景」で構成された流れの中に、要所要所で、他人からは見ることができない登場人物視点の主観カットが挟まれる。一番印象的なのは、ホテルのプールで水にたゆたうギギが、自分の身体を見ている視点だろう。この主観のカットの前後で彼女は自分の心を見つめ、そしてひとつの重要な結論を出す。  

そしてクライマックス。ハサウェイはΞガンダムを操り、連邦軍のモビルスーツ、アリュゼウスと戦う。だが、その戦いは彼のトラウマ、封印されていた記憶を解き放ってしまう。このハサウェイの記憶の映像は、やはり主観映像として描かれており、「記憶の中」で「主観」という二重に、他人からは「見えない」映像として表現されている。  

『素晴らしい映画を書くためにあなたに必要なワークブック シド・フィールドの脚本術2』(シド・フィールド、訳:菊池淳子/フィルムアート社刊)にこんな記述がある。 「ウォルド・ソルトは言っている。フラッスバックは「フラッシュプレゼント」[「プレゼント」は現在という意味]である。なぜなら、登場人物はいつでも現在だからだ。(略)フラッシュバックの映像やイメージは、過去の記憶・思い出・幻想であったとしても、それはあくまでも登場人物が“今現在”感じたり考えたりしていることなのだ」  

同書では、フラッシュバックとは物語の都合で入れるものではなく、登場人物が「現在」感じている意識の流れの中に入れるものだ指摘をしている。クライマックスの戦闘シーンはまさに、ハサウェイがその瞬間感じていることとして、彼の過去がインサートされている。そしてその先に、彼の想像上のアムロとの対話シーンも描かれている。  

この進行形のハサウェイの意識の流れを断ち切るのが、ギギの言葉である。「見えない」世界に入り込んでいたハサウェイを、ギギが「見える」世界へと連れ戻すという形で、ギギの役割をクリアにしたところで、本作は締めくくられる。


《藤津亮太》
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