「NOMAD メガロボクス2」における“本歌取り”はいかに行われたのか【藤津亮太のアニメの門V 第72回】 | アニメ!アニメ!

「NOMAD メガロボクス2」における“本歌取り”はいかに行われたのか【藤津亮太のアニメの門V 第72回】

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第72回目のテーマは、『あしたのジョー』を原案にした『メガロボクス』とその続編『NOMAD メガロボクス2』。本作における“本歌取り”とは――

連載 藤津亮太のアニメの門V
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「真っ白な灰は、確かに美しい。しかし、美しすぎるよな、とも三十八歳の僕は感じる。燃えかすの残る人生や不完全燃焼でくすぶりつづける暮らしだって、まんざら捨てたものじゃないだろう、というふうにも思うのだ」(重松清『セカンド・ライン』)
メガロボクス』とその続編『NOMAD メガロボクス2』は漫画『あしたのジョー』を原案とした作品だ。ここでいう「原案」とは“本歌取り”の本歌のような意味合いで使われている。確かに『あしたのジョー』の矢吹ジョーや丹下段平、力石徹、白木葉子を思わせるキャラクターは登場する。しかし舞台は未来都市。題材となるスポーツも、ボクシングではなく、ギアを装着して行うボクシング「メガロボクス」である。

実は、設定以上に大きな違いもある。まず第一に、物語のボリュームも違う。原作は新書サイズで20巻。そのままTVアニメにするとだいたい6クール(1年半分)ぐらいにはなる長さだ。それに対して、『メガロボクス』は、2シリーズ合わせても26話しかない。また物語を成立させる時代背景も大きく異る。原作の連載が始まった1968年と、現在では半世紀ほどの隔たりがある(そもそも2018年の『メガロボクス』は『あしたのジョー』連載50周年作品として放送された)。
このような環境の違いの中で“本歌取り”はいかに行われたか。

『メガロボクス』が始まってまず、おもしろいなと思ったのは格差のある未来世界という世界観を導入したことだ。作中では、超近代ビルが林立する「許可地区」と市民IDを持たない貧困層が住む荒野の「未認可地区」にわかれている設定で、海の向こうから来た移民も数多く登場する。こうした世界観を用意することで、どこの誰かもわからない(ジョーと呼ばれる主人公の本名は本作では描かれない)、ハングリー精神のある主人公の存在に説得力が生まれていた。

原作の矢吹ジョーは、その生い立ちが明確に描かれていないところにある種の神話性が宿っているキャラクターだが、それをそのまま現代には置き換えづらい。そこを未来の架空世界を題材にすることでもっともらしさを担保したのである。

さらにそうした設定を見せるビジュアルは、1970年前後あたりのアメリカ映画のような時代風俗、小道具などが取り入れられ、一種のレトロフューチャーとして本作は描かれている。そうすることで、一回転して原作(とそれが描かれた時代)の空気感と地続きの感じを醸し出していたのである。

こうした「原案」との絶妙な距離のとり方で世界観やキャラクターが造形された一方で、物語をどういう形で落着させるかはなかなか難しい問題だった。

『あしたのジョー』は、ジョーが世界チャンピオンのホセ・メンドーサと戦い、死闘を繰り広げたジョーが「真っ白に燃え尽きた」コマで締めくくられる。このラストが描かれたことで、読者にとって、それまでのエピソードがここに向けて配置されたかのような印象を与えることになった。同作が単に「すごくおもしろい漫画」から「歴史に残る作品」になったのは、この伝説的なラストシーンがあったからといってもよい。つまり後の人間が『あしたのジョー』について考える時に、このラストシーンをどう取り扱うか、ということが大きな問題になる。

しかし、である。『あしたのジョー』の難しいのは、このラストシーンに至るまでにはいくつかの必要要素があるのである。その最大のポイントが、ジョーの生涯のライバルといってもい力石徹との試合であり、それによって力石が死ぬという、エピソードだ。

ジョーは、完全燃焼できる相手である力石を失った後、精神的肉体的彷徨を経て、あのラストシーンに至るのである。つまり「生涯のライバルとの勝負」がそのままラストシーンには直結しないのである。しかし、これをひとつながりのエピソードとして見せるには、ボリュームがありすぎるのである。

故に、テレビシリーズを再編集した映画『あしたのジョー』は力石の死まででまとめられていたし、2011年の実写映画もやはり力石戦をクライマックスにおいていた。アニメはその後、「力石戦後」にフォーカスし、テレビシリーズと映画で『あしたのジョー2』が制作され、原作のラストまで完走したが、そうでもしないと「真っ白に燃え尽きた」ラストには至れないのである。

『メガロボクス』もまた、力石に相当する最強のメガロボクサー・勇利とジョーとのお互いのプライドを賭けた試合をクライマックスに置いた。さらに1つの作品としてまとめるためであろう、勇利は死なず、ある意味でなるべくしてなったラストシーンで物語は締めくくられた。

ジョーを「真っ白に燃え尽きさせること」が作品の目的ではないのだから、それはそれで非常に納得のいくものだったのだが、同時に個人的には「今の時代にあのラストは描きづらいのかな」と思ったのも事実だ。

2018年の前作に以上の印象を持っていたので、今回『NOMAD メガロボクス2』が始まった時は、やはり「あのラストにどう立ち向かうのか」ということが一番の興味だった。そして「やられた」と思ったのは、本作は「あのラストが示すもの」とはまったく逆の価値観で制作されていたからだ。それはとても明確な主張で、「本歌取り」をしながら、もとの歌の意味をひっくり返してしまうという、インパクトあるものだった。

ひとことでいうと『NOMAD』は「家に帰る」という物語である。MONAD(ノマド)とは、いうまでもなく遊牧民ひいては放浪者を意味する言葉だ。そしてそれはジョーが、街を逃げ出して地下メガロボクスで戦う時に名乗っていた名前でもある、オープニングで、「NOMAD」と書かれた石積みの墓が出てくるが、つまり放浪者が放浪を止める物語なのである。

『NOMAD』の前半は、チーフという地下メガロボクサーとジョーの物語。チーフは、“カーサ”と呼ばれる移民たちのコミュニティで暮らしており、“カーサ”を守るために戦う男だ。彼との出会いと別れを経て、再び街に戻ったジョーは、彼が壊してしまった、彼のホームである“チーム番外地”を蘇らせようとする。ジョーはやがて、メガロボクスチャンピオンを倒したマックという男と再び試合をすることになるが、このマックもまた家族のために戦う男だ。

チーフと出会うエピソードは『あしたのジョー』では力石戦後にドサ回りに出かけるエピソードを踏襲しているのだろうが、全然意味合いは異なっている。『あしたのジョー』でラストの対戦相手となるホセも家族を愛する男だが、彼の戦う動機の中には家族はない。

このような物語だから、物語は「真っ白に燃え尽きる」方向へは当然進まない

『あしたのジョー』でホセはジョーと戦いながら「ジョー・ヤブキは廃人になったり……、死んだりすることが恐ろしくないのか……? 彼には悲しむ人間は一人もいないのか……?」と恐怖を語る。ラストシーンの「真っ白に燃え尽きた姿」は、このようなギリギリまで自分を追い込むジョーの生き様あればこその姿だった。漫画のラストをめぐって「ジョーは死んだのか」という議論が出るのもある意味当然といえる。

なお『あしたのジョー2』は、真っ白の燃え尽きたジョーの後に、短く夕日の街をゆくジョーの姿がインサートされる。風来坊(NOMAD)としてやってきて、ボクシングで生の充実を得た男が、また風来坊へと戻っていったというわけだ。

ある極点を目指すこと。そしてそれを通り過ぎてまた旅に出ること。原作とアニメではそのように描かれたジョーだが、『NOMAD』のジョーはそうではない

マックとの試合の結末は、ジョーにタオルが投げられる、という衝撃的なものだった。思わず「そんな展開があるのか」と映像を戻して再見してしまった。タオルを投げたのはサチオ。街を出ていったジョーに反発し、ジョーを憎んでいた旧知の少年だ。つまりサチオはジョーのホームを構成する重要な人物なのだ。そして、ジョーとの和解を果たしたサチオは、ジョーに燃え尽きてほしくなかったからタオルを投げたのだ。

こうしてジョーはリングから還ってくる。決してかっこよくはない。その姿を見た時、冒頭に引用した、フリーライター(あえてこう書こうと思う)重松清のエッセイの一節を思い出した。

このエッセイは『あしたのジョー』のマンモス西を扱っている。

「かつて少年鑑別所のボスだった彼は、パッとしなかったボクサー生活に見切りをつけて下町の乾物屋の婿養子におさまり、物語から静かに忘れ去られていった」(同)。
しかし重松は、そのマンモス西の去り方に、心を寄せる。

「ぼくは、真っ白な灰になったジョーに胸の片隅で憧れながら、しかし、燃えかすだらけの西や悪ガキたちの生を支持する。くすぶりの残る日々の暮らしを、肯定する」(同)
『NOMAD』で描かれたのは実は、重松があえて注目したマンモス西的な人生のあり方だ。それは「真っ白に燃え尽きる」美学とは正反対といってもいい。しかし、世の中で生きている多くの人は、そのように生きているのである。ここへきて、前作のラストでジョーとの死闘のあげく、しかし力石のように死ぬことがなかった勇利の人生もまた、物語の主題の中にきれいに配置されることになる。勇利は車椅子生活となって、メガロボクスの指導者として生きている。

未練や無念を抱えて、でも生きていくこと。それはそれでひとつの大人の人生だ。物語は、サチオが旅出るのをジョーが見送るシーンで終わる。若者は放浪者となり、そしてホームへ戻ってくる。そしてホームには、心のなかに埋み火を抱えながらも生きている大人がいる。本作はこのようにしてジョーの青年時代の終わりを描いて締めくくられる。 

『あしたのジョー』は、触れれば血が吹き出すような純粋さのある作品だ。それに対して『NOMAD』は燃え残った後のぬくもりが残るような作品だった。

『NOMAD』は、まさに批評的読解として『あしたのジョー』を「本歌取り」したのである。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』、『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』などがある。ある。最新著書は『アニメと戦争』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》

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