16年ぶり復活…伝説の萌えソングユニット「UNDER17」がオタク文化に残した功績 桃井はるこ【インタビュー】 3ページ目 | アニメ!アニメ!

16年ぶり復活…伝説の萌えソングユニット「UNDER17」がオタク文化に残した功績 桃井はるこ【インタビュー】

2002年から2004年までの、わずか2年間の活動期間にも関わらず、今なおオタクの間やエンタメ業界で語り継がれる存在「UNDER17」。声優でシンガーソングライターの桃井はるこさんに、「電波ソング」というジャンルを確立させた当時を振り返っていただいた。

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■「オタクのための音楽を作りたい!」


UNDER17がエポックメイキングだったのは、顔出しで活動したことや「電波ソング」というジャンルを確立したことだけではない。ライブイベントも大きな理由だ。

「UNDER17の初のステージイベントが『キャラフェス2002春』でした。
そのイベントは美少女ゲームの展示会で、各ブースでは開発スタッフの座談会やシンセサイザーでBGMの実演なんかをしていたんです。
UNDER17結成前にそのイベントを訪れた時、ここでスタンディングのライブをしたらめちゃめちゃ面白いだろうなと思ったんです。

同じ趣味のもと、あれだけ多くの若者が集まっているのに、体験版のCDロムをもらって帰ってくるだけじゃ寂しいじゃないですか。
それで思い出になればいいなと思ってステージに立つことにしたんです。その時からもう『みんな立っていいよ!』って煽って(笑)。

客席の前の人は座って見ているんですけど、後ろの方では盛り上がってくれる人もいたので『これは行ける!』と初回から思いました」

しかし不安もあったようだ。

「秋葉原でもライブイベントがありましたけど、スピーカーを入れ、ディストーション・エフェクターを使用した『ギューン!』というエレキギターのヘヴィな音を出すようなイベントって美少女ゲーム業界では珍しかったんです。
しかもオープンスペースですよ! 苦情が来るんじゃないか、お客さんが来なかったらどうしようかって。

毎回どうなるか分かりませんでしたけど、『18禁の作品でもいい』『流行の曲とは違う電波ソングでもいい』……そうやって共感する人たちが応援してくれるので、すごくやりがいがありましたし、楽しかったです」


「当時のオタクは虐げられていたし、恥ずかしい存在という認識でしたから、今ほど公言できない状況でした。

それまでの流行歌って、例えば遠足のバスの後ろで騒いで夜になれば女子の部屋や男子の部屋に行けるような人が作った音楽だったと思うんです。
でも私がUNDER17でもソロでもやりたかったことは、私もそうでしたけど、バスの前の方の、先生の隣で気持ち悪そうにしている子に向けての音楽だったんです。

その人たちに、『やっと自分たちの音楽を見つけた!』と思ってもらえたんでしょうね。
『オレたちだって盛り上がっていいんだ!』とフラストレーションを爆発させる場を作れたとしたら嬉しいと思いました」

桃井さんはUNDER17としてステージに立つ時に必ずメガネを着用していた。これはオタクに寄り添う意味を込めた、UNDER17における桃井さんの「ポリシー」である。
なお「Animelo Summer Live 2008 -Challenge-」で会場に投げ込まれたメガネは、今もファンの手元で大切に保管されているようだ。


■盟友「小池雅也」


UNDER17のユニット・パートナーというだけではなく、それ以前から桃井さんのソロ曲の編曲も手掛けていたという小池さん。

その出逢いはまだ桃井さんが高校生の頃。SF作家の渡辺浩弐さんが設立した映像制作会社「GTV」に駆け出しのライターとして出入りしていた時だ。

「渡辺浩弐さんの多彩なお仕事ぶりを拝見するうち、私も『自分の表現の根幹って何だろう?』と思いはじめたんです。
それで子供の頃から好きだった音楽しかないと思い、曲を自作して渡辺さんに相談したんです。
すると『会社と取引があるスタジオにリミックスもしているエンジニアさんがいるから、その人に編曲してもらったらいいんじゃない?』と紹介していただきました。
その人が小池さんでした。

当時は80年代の音楽がカッコ悪いと言われている時代でしたが、私はそういうのが好きで、例えば『これはヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」みたいな音色でいいんですけど』と言うと、小池さんは『えー、カッコ悪いよそんなの』なんて言わず『なるほど』って分かってくれるんです。
それで作ったのが1997年のソロ曲『GURA GURA』でした。

そこから編曲をお願いするようになり、『キャラフェス2002春』ではUNDER17としてステージに立ってもらったんです。
嫌がる小池さんをむりやり引っ張り出して(笑)」

だが桃井さんが小池さんを盟友に選んだのは、ただ「受け入れてくれたから」という理由だけではない。

「当時、オタクに対する風当たりの強さが、一般的にも業界の一部にもあったんです。
私はそういう人が許せなくて鬱々とした気分になったこともありました。

でも小池さんは絶対にそんなことをしない人でした。
自分の音楽を聴いてくれる皆さんに凄く感謝していて、オタクを邪険にしない人だったんです」


「小池さんがいなかったら私は音楽の仕事ができていなかったと思います。
感謝しかありません。

私のワガママでUNDER17を解散してしまい、小池さんには申し訳ないと今でも思っています」

→次のページ:UNDER17解散。そして伝説へ……


《気賀沢昌志》
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