『宇宙刑事ギャバン』『キン肉マン』『爆竜戦隊アバレンジャー』などのテーマソングで知られ、誰もが一度は聴いたことのある曲を数多く持つ串田さんだが、その生い立ちを知らない人はまだ多いかもしれない。
そこで、ベストアルバムのリリースやアニバーサリーライブ開催に沸くこのタイミングでインタビュー。デビューの経緯や思い出に残る出来事などを語ってもらった。
[取材・構成=松本まゆげ/取材・構成=小原聡太]
■音楽にのめり込んだ少年時代
――このたびは、50周年おめでとうございます。この機会に、デビュー前後のお話も伺えればと思っています。そもそも、デビューするかなり前から音楽が好きだったとか。
串田:ええ、中学生のころからですかね。
ジョニー・ディアフィールドの「悲しき少年兵」を買って聴いてみたり、ささきいさおさんのロカビリーに触れてみたりして、「いいな、こういうのを歌えるようになれたらな」とどんどん興味を引かれていきました。
あとは米軍のベースキャンプにもよく行っていましたね。そこでの影響も大きいと思います。周辺には外国人向けのクラブなんかもあったんですよ。
――そこに出入りを?
串田:はい。そういうクラブでは毎日夕方から朝まで4つのバンドが交代でステージに立っていたんですが、ずっと観ていました。
まあカッコいいんですよ。なんて楽しい場所なんだと思っていましたね。
中学生は行っちゃいけないとこだったんですけど(笑)、友だちの兄貴が演奏しているからって理由をつけて通っていました。
そうしてまずは、一番カッコいいと思ったドラムからはじめたんです。ドラム教室に通いはじめて、初日の帰り道にドラムセットを注文して。
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――すごい行動力ですね。
串田:クラブみたいな楽しい場所にずっといるには、自分たちでバンドを組んで出演者になるのが一番手っ取り早かったんです。そうしたら自由に出入りできるじゃないですか。
メンバーも早々に揃ったので、勉強がてら演奏していました。当時は座間あたりに行っていたと思います。
――串田さんの地元の横浜市周辺は、アメリカの文化にも触れやすかったでしょうね。
串田:それにタイミングも良かったですね。本国からもいろんなバンドや歌手が来ていて、すごいなって影響を受けてばかりで。その頃には「将来音楽の世界に入りたい、絶対にプロになってやる」って思っていました。
――それ以前になりたかったものってあるんですか?
串田:いや、本当に何も考えていなかったです。音楽に出会う前は、オートバイが好きで、当時は14歳になると許可証を貰えて、それがあればスーパーカブに乗れたんです。
4月に14歳になっていた友だちはすぐにもらっていて乗っていたから、「僕も早く欲しい!」って思っていたんです。
だけど、僕が14歳になる誕生月(10月)からその制度がなくなって(笑)。
――すごいタイミングですね!
串田:そうそう(笑)。だから「ああそうか、バイクは駄目なんだ」って思ったんです。
――その反動で音楽の道に。
串田:そうですね。そのあとすぐ音楽にのめり込んでいきました。ドラムもすごく楽しかった。
だけど、ステージでは一番奥じゃないですか。目立たないんですよ! お客さんとしてみていた頃はドラムが目立って見えたんですけどね(笑)。
だから、だんだん前に出る方法を模索するようになりました。ギターを覚えたり、ドラムを叩きながら歌ったりしていましたね。
■ずっと変わらない“楽しむ心”
――それからはずっと音楽活動をされていたんですか?
串田:そうですね。米軍キャンプのナイトクラブだとかでライブをやっていました。
沖縄や広島、名古屋にもよく行っていましたね。沖縄はまだ返還されていない頃だったから、パスポートが必要だったのを覚えています。
広島では、1日3000人くらい入れ替わり入るディスコティック(ディスコのはしり)でよくやっていて、ベースキャンプから外国人の方がたくさん来ていました。
当時の僕はドラムを叩きながら歌っていたんですけど、テンプテーションズがカバーした「オールマン・リバー」(オリジナルはポール・ロブソン)を演奏したら、兵隊が前に集まってきて手を組んじゃって。
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――すごい。感動していたんでしょうね。
串田:僕もすごいことだなって思いながらやっていました。そんなときに、当時の東芝EXPRESSの方が声をかけてくださったんです。
――それは……スカウトですね。
串田:ほかにもいろんなレコード会社の方が来ていたんですが、東芝の方がかなり熱心でした。
僕はライブが好きだからデビューとか興味なかったですし、したくなかったんですけど、それはもうかなり口説かれまして(笑)。ちょっとやってみようかなと思ったんです。
――そうしてデビューを。
串田:はい。まあでも、デビューしたらしたでいろいろありましたけど(笑)。
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――いろいろ、というと?
串田:僕はもともと米軍キャンプとかで演奏していたので、何を勘違いしたのかレコード会社の人が「ブラックフィーリング」っていうキャッチフレーズで売ろうとしていたんです。
だけど、それでずーっとやっていたら“黒っぽい”じゃなくて“暗っぽい”フィーリングになっていったんですね。
当時の時代背景なんですけど反戦歌とかフォークソングとかでどうしても多くて。
それが僕耐えられないよっていうくらい。デビュー曲は「からっぽの青春」ってタイトルだったんですが、僕は楽しい青春を送ってきたからギャップがありすぎちゃって(苦笑)。
――自分のパーソナルや表現したいものとは、かけ離れたものを歌わなければいけなくなったんですね。
串田:そのあとも「生きる限界」っていう曲がきちゃったりして(笑)。
確かにリズム&ブルースも明るい曲ばかりじゃないんですよ。奴隷時代から歌っているわけだから。
でも、そんななかでも僕は明るい曲を楽しく演奏していたので、ドサッと重みがきたわけです。
――それまでずっと自由にやっていたのに。
串田:奪われた感じがしましたね。撮影では「笑わないように」といわれて、当時の写真で笑っているものはほぼないはずです。
――では、楽しくなってきたのはいつ頃なんですか?
串田:自分で割り切ろうと思ったときですかね。気持ちを切り替えるというか。
デビューしてからは「ステージ101」という音楽番組に出演していたんですが、それがすごくお硬い場所で、学校生活に逆戻りというか。
場違いだなという思いしかなかったです。とにかく合わなかった。俺の世界じゃないと。
だから3か月くらい経ったのときに「やめさせてください」って言ったんです。
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――そこまで思いつめていたんですね。
串田:だけど、「もうちょっとがんばろうよ。契約とかもあるからさ」ってとめられて、覚悟を決めたら開き直れたんですよ。
やるからには気持ちを切り替えて楽しくやろうと。
番組にはゲストの方も来て歌ってくれたりしたんですけど、そういう気持ちでやってみたら楽しめました。
歴代の司会の関口宏さん、黒柳徹子さん、マイク眞木さん、前田美波里さんたちは、いろいろ話してくださいましたからね。
あとは作曲家の中村八大先生との出会いも大きかったです。破天荒な先生で、親近感があって楽しかったんですよ。
歌によっては振り付けの先生がいることもあったんですけど、「そんなことやっていても駄目だ。ドラムセットの横から飛び降りろ!」って言うんです。あ、この先生面白いって。
――活路を開いてくれた。
串田:はい。人生も音楽もいろいろ教えてくださいました。こういう先生だから「上を向いて歩こう」のような素晴らしい曲が生まれるんだなと思いました。
そういうきっかけがいろいろあって、気持ちがひっくり返って楽しくなっていきましたね。
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