「カバネリ」「コンレボ」が問う”強者”と”弱者”の物語 藤津亮太のアニメの門V 第12回 | アニメ!アニメ!

「カバネリ」「コンレボ」が問う”強者”と”弱者”の物語 藤津亮太のアニメの門V 第12回

アニメ評論家・藤津亮の連載「アニメの門V」。第12回目は『甲鉄城のカバネリ』と『コンクリート・レボルティオ~超人幻想~』で見る”強者”と”弱者”の物語。毎月第1金曜日に更新中。

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物語は大きく2つに分けられるのではないか。
一つは、強者の物語。己の正統性・正当性の証。秩序を回復するための物語。
もう一つは、弱者の物語。現状への異議申し立て。言葉にならない個人的な思い。答えのでない永遠の問いかけの物語。
「強者の物語」が“正史”とするなら、「弱者の物語」は“稗史”だ。この2つには善悪や正邪はつけられない。ただ、その物語の向かっている方向が違うのだ。そして、強者が強者の物語を信じ語り、弱者が弱者の物語を伝えていくとも限らない。強者が弱者の物語に甘え、弱者が強者の物語にすがることもままある。

そんなことを思ったのは、『甲鉄城のカバネリ』も『コンクリート・レボルティオ~超人幻想~THE LAST SONG』も、背骨の部分にこの2つの物語のせめぎ合いが置かれていたからだ。

『甲鉄城のカバネリ』の主人公・生駒はかつて、カバネ(一種のゾンビ)に襲われた妹を自らの手にかけた経験を持つ。その心の傷を抱えたまま生駒はカバネの研究を続けてきた。そして自分がカバネに襲われた時、研究の成果を生かしてカバネ化を食い止め、人の心(頭脳)とカバネの体を持ったカバネリとして生まれ変わった。生駒は、カバネによって崩壊する砦・顕金駅から装甲蒸気機関車(この世界では駿城と呼ばれる)・甲鉄城に乗り込んで脱出をする。
この甲鉄城と合流するのが、幕府の対カバネ精鋭部隊・狩方衆が乗る克城である。その狩方衆を率いるのが将軍の息子である天鳥美馬だ。

美馬が語るのは「強者の物語」である。彼は「強いものだけが生きられる」と語り、自分を謀殺しようとした父への復讐を胸に秘めている。砦のひとつ磐戸駅をカバネを使って滅ぼした美馬は、いよいよ将軍のいる金剛閣へと攻め入る時、こう語る。
「これがわれわれが求めてきた公平な世界だ。駅を出て戦いに身をさらすべきだ。ここでは臆病者は死に絶え、力あるものだけが生き残ることができる。それがこの世界の理だ」
ここでは生存バイアスも、個人差(障害や年齢なども含む)もまったく考慮されない。「強くなる意志さえあれば強くなれることこそ公平である」と美馬は甘く囁くのだ。
この美馬の語る「公平さ」に生駒は反発を禁じえず、それを否定する。世の中には、強くなりきれず無念に死んでいく人間が大勢いる。生駒はそういう弱者の物語の側にあるのだ。だからこそ生駒はカバネリの力で人を守りたいと願うのだ。
政治闘争の一環として人を殺す美馬の姿を見た生駒は起こり、「なぜあいつは人を殺すために力を使う。それは自分の身がかわいい卑怯者のすることだ」と断言する。

興味深いのは、美馬の「強者の物語」は、彼なりの「弱者の物語」が変質して生まれているということだ、
美馬の父は、将軍の座を巡る暗闘の中、疑心暗鬼となり幼い美馬を切りつけたことがあった。さらにはカバネリ討伐に出て成果をあげる美馬を畏れ、殺してしまおうとも企んだ。その中で生き抜いてきた美馬は、戦わなくては殺されてしまう弱者そのものだ。
だが、父が自分を殺そうとする理由が「畏れ」であると見抜いた美馬は、自分の中にある「畏れ」を封印してしまう。その時に「不幸な子供がなんとか身を守った」という「弱者の物語」が、「人は畏れを封印して強く生きるべきである」という「強者の物語」になってしまったのだ。個人的な信条が、他人を律するルールへと変質してしまう。
もちろん美馬の中に、まだ「畏れ」の心は眠っている。
美馬の部下であるカバネリの滅火は、その残酷な作戦に身を捧げ、人間性を完全に失って暴走する。美馬に刃を向ける滅火。その時、美馬は冷や汗を流している。それは彼の封印したはずの「畏れ」が顔を覗かせたものだ。
冷や汗に気づいた滅火は、その時、人間の表情を取り戻す。滅火は、自分に死ねと顔色一つ変えずに命じた男の中にも、人間の心がまだ残っていることを確認できたのだ。それは、かつて自分に向けていた優しさにも一片の真実があるということを信じられた、ということでもある。この「美馬の冷や汗」は最終回でも重要なところで登場する。

生駒と美馬は対照的なキャラクターだ。だがそこにあるのは「弱者の物語」と「強者の物語」という単純な対比ではない。「弱者の物語」を、秩序のための「強者の物語」へと変質させるかどうかの違いこそが、2人のキャラクターの一番大きな差となっているのだ。

一方、『コンクリートレボルティオ』は、“超人”と呼ばれるさまざまな能力を持った人々が、ある時代を生き抜いた様子を描く。
舞台となるのは、神化と呼ばれる架空の元号を持つ日本。物語は、神化40年代の出来事を中心に進んでいく。本作で“超人”呼ばれるさまざまな特殊能力を持った存在は、昭和40年前後にマンガ・アニメ・特撮・スポーツ中継などの中で描かれてきたキャラクターたちを参照しつつ造型されている。
本作のユニークなのはそうしたメタフィクション的な視線だけではない。この世界では、“超人”の存在を報道することは法律によって禁じられており(戦中に軍事機密だった名残)、超人の存在というのはいわば“公然の秘密”というような扱いになっているのだ。ただし超人を題材にしたフィクションは許容されており、「そこにいるけれどいないことにされている」「一種の都市伝説的存在」という存在が“超人”なのだ。

この“超人”のあり方は、まさに「弱者の物語」の側に属している。そして「弱者の物語」が、表向き語られるニュース=歴史である「強者の物語」といかに絡み合っていくかを描くのが、本作の趣向となっている。もちろんこの「弱者の物語」の視点には、大人の社会から無視されてきた「子供たちのヒーローの物語」という側面があることも無視できない。まさに「弱者の物語」=稗史という構図からスタートするの作品なのだ。そして物語が進むにつれ、正史と稗史は複雑に入り乱れていく。

物語は最終的に、“超人”という「弱者の物語」が「不自然だ」という理由で、消し去ろうという人間が登場する。これは、超人という「弱者の物語」はなぜあるのか、という問いかけの裏返しである。これは作中のキャラクターたちが問いかけられているだけでない。視聴者への問いかけでもある。「弱者の物語」=稗史の中にある真実(稗史には、民間に伝わる歴史物語という意味から転じて小説・つくり話という意味もある)が、聞こえているか、と。

「強者の物語」と「弱者の物語」は、『カバネリ』が描いたように表裏一体であり、『コンレボ』が描いたように相補的なものだ。だからこそ、どちらか片方の側だけを選ぶ(強制する)という行為は、極めて政治的な意味を持つ。二つの物語を安易に選ばず、常に胸の中に抱えていることこそ大事なことなのだ。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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