「打ち上げ花火~」原作ドラマの“自由をめぐる物語”を再構築 藤津亮太のアニメの門V 第26回 | アニメ!アニメ!

「打ち上げ花火~」原作ドラマの“自由をめぐる物語”を再構築 藤津亮太のアニメの門V 第26回

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『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』は1993年の実写ドラマをアニメ化したという非常に特殊な成り立ちの作品だ。
以下、ドラマ版とアニメ版を比較しながら考えるため、双方のストーリーの重要な部分に触れている。

ドラマ版は、『If もしも』というシリーズの中の1本として制作された。ある選択によって生じた人生の分岐を描くという趣向のシリーズだ。シリーズの中でも若干異色作として位置づけられるドラマ版『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(以下、ドラマ版と呼ぶ)だが、これもまた選択によって生じた分岐を描く、という点は踏襲している。

ドラマ版のあらすじは次の通り。
1)花火大会のある日、登校日で学校に行った小学校6年生の典道は、クラスメートの祐介とプールで競争をする。同じくクラスメートのなずなは、競争に勝った祐介を花火に誘う。
2)しかし、祐介はなずなとの約束を破り、なずなは追いかけてきた母親に連れ戻される。その姿を目撃した典道は、自分がもし勝っていたら、と思う。
3)ここから典道が競争に勝った分岐に入り、なずなが典道を迎えにくる。家庭の事情で転校しなくてはならないなずなは、このまま家出(駆け落ち)をしようとしていたのだ。二人はバスに乗り駅まで行き、電車を待つが、なずなはふいに帰るという。戻ってきた二人は夜のプールで泳ぐ。なずなは典道に、今度会えるのは二学期だね、と告げる。
4)なずなと別れた典道は、ひょんなことから花火師を紹介され、打ち上げ花火を真下から見ることになる。ストーリーの前半で祐介を含む友達たちと「打ち上げ花火は横から見たら平らなのではないか」という大議論が起きており、友達たちは花火大会を横から見るために入江を回り込んだ灯台まで歩いていっており、彼らは花火師の花火を横から見ることになる。

このストーリーの妙は、ドラマの主体はなずなにありながら、語り手は典道である、という構造にある。典道はなずなが何を考えているかわからないまま振り回され、それによって生まれる典道から見た“なずなとの距離”が絶妙の情感を生んでいる。
たとえば、終盤の夜のプールのシーン、典道が飛び込むのは、なずなのたゆたっているコースの“隣のコース”で、そこは“隣”ではあるけれど、真っ直ぐ泳いでもなずなには到着しない場所だ。その後、二人がプールで戯れるカットが出てはくるのだが、“隣のコース”を全力で泳ぐ典道に、このストーリーの立ち位置が現されているように思う。

ドラマの主体がなずなである、というところが見えると、この物語は「なずなの自由」をめぐる物語であるという部分が見えてくる。
家庭の都合で望まぬ転校をしなくてはいけないなずなは、自分が自由ではないと感じており、だからこそ自由を求めて行動しているのである。駅まで行って電車に乗らないと決めたのも、そこまで行ったことで「自分は自由だ」ということが実感できたからだ。家出をしようと思えば、いつでもできる。だから、“一見不自由”に見える家に戻ることができる。夜のプールのシーンは、そんな開放感の現れと読める。

典道は、そういうなずなの隣にいながら、なずなのその心には触れることができなかった。そこにあったのは大人と子供の境界線なのか、男女の間の深い川なのか、そもそも他人というものが持っている“壁”なのかはわからないが、そういうディスコミュニケーションというものがこの世の中に存在することを目の当たりにして、少年の夏の日は終わっていくのである。これは、灯台に行って一方的に憧れの存在を叫んでいる友達たちにはなく、典道だけの感情で、この感情故に典道は主人公であるといえる。

このようにドラマ版を読んだ上で、アニメ版を見ると、非常によく考えてドラマ版を換骨奪胎したことがわかる。
アニメ版の前半は、ほぼドラマ通りに展開する。(主人公たちが中学1年生になっているのは大きな違いだが後述する)。ドラマ版では、電車にのらないなずなたちだが、アニメ版では、電車に乗る/乗らない、次の駅でなずなの両親たちにつかまる/つかまらないという分岐が用意され、都合3回、「もし」の世界へのリトライが行われている。
そして「もし」の世界へのリトライを可能にするアイテムとして、アニメ版には。ガラスのようなものでできた小さな玉(設定では「もしも玉」と呼ばれている)が登場している。もしも玉を、思いを込めて投げると、分岐の地点まで遡ってやりなおせる、というのだ。

アニメ版も、なずなの自由をめぐる物語であることは変わらない。ただし、こちらは2段階で電車に乗ったなずなが『瑠璃色の地球』を歌うシーンで、シンデレラのイメージがまず登場し、再婚する母からの逃走が「期限付きの自由」であることが示される。ここでアニメはなずなの内面にぐっと踏み込んでいる。
そして3度めの分岐でたどり着いた夜の海(ここはドラマ版の夜のプールと韻を踏むように配置されている)で、なずなと典道は、粉々になった巨大なもしも玉の破片の中に、無数の「もしも」な可能性があることを見る。
ここで、なずなも典道も、ようやく自分たちの未来はもっと自由である、ということを信じることができるのである。
このようにドラマ版の主題と思われる「自由」の問題を、アニメ版もちゃんと継承しているのである。そして、それをいかに表現にするかという点で、アニメ的にインパクトのある表現が選ばれているのである。

とはいえアニメ版でアレンジした結果、ドラマ版と大きく異るところも2つ生まれた。 ひとつは、もしも玉というギミックが登場したことで典道が主体的に行動する主人公になったこと。もうひとつは、なずなの心理にかなり踏み込んだこと。結果として、後半はラブストーリーの要素が濃くなった。

なずなの最後のセリフがドラマ版の「今度会えるのは二学期だね」というウソから、アニメ版の「次会えるのはどんな世界かな。楽しみだね」に変わっているのは、その違いを端的に表している。
これはこれでひとつの物語の整理の仕方ではあるが、なずなの気持ちが見えないことで成立していたドラマ版の、ディスコミュニケーションの前に立ち尽くすしかない少年がたたえていた情感はなくなってしまった。
そう考えてみると、(賛否を呼んでいる)ラストのなずなと典道がいない教室のシーンは、ドラマ版で精神的に置き去りにされた典道のかわりに、置き去りにされた祐介を描いたシーンと考えることはできるかもしれない。

以上、ドラマ版で描かれていたことが、いかにアニメ版に受け継がれ、アレンジされているかを検討してみた。
その上で、改めて考えたいのが、年齢設定も含めたキャラクターの描き方だ。

ドラマ版は小学6年生という設定で、背も低く、典道が声変わり中で、祐介が声変わり以前という「小学生ぽさ」を強調している。だからたとえば、祐介が甲高い声で「なずなに告白する」というと、背伸びをしているような、おもしろさが生まれていたわけだ。
これを仮にドラマ版の“シズル感”を呼んでみよう。奥菜恵が演じたなずなの魅力もまた、微妙な年頃の人間しか持ち得ない“シズル感”の産物といえる。そしてドラマ版の情感を支えていたのは、この子供と大人の間の肉体を撮影しているという“シズル感”なのである。ドラマ版が特別な作品として愛されているのは、この“シズル感”をとらえたことによってマジックが生まれたからだ。

一方、アニメ版はキャラクターを中学1年生にして、典道も祐介も声変わりした男声をあてている。さらにアニメではある程度整った顔は、年齢不詳になりやすく、典道も祐介もカットによっては高校生ぐらいに見える時もあった。これはなずなも同様の状態なので、「16歳に見える?」というセリフからマジックが消えてしまった。
当然ながらドラマ版の“シズル感”はアニメというメディアではなかなか獲得することが難しい。制作側も、それを承知の上で、アニメならではのキャラクターを造形したのだと思う。でもそれはストーリーの要請にしたがった造形であって、アニメならではの“シズル感”をそこにプラスするには至らなかった。それは作り手も十分予測の上でやっていたはずだ。

では、キャラクターで“シズル感”が獲得できないのなら、何をもって、アニメならではの“シズル感”を獲得するのか。その方法そのものはいくつかあるのだろうが、いずれにせよ、実写からアニメへのコンバートにおいては、役者によって成立している部分を、どう変えるのか、何で代替するのか、という点が大きなの障壁であることを、本作は示してしまったといえる。

逆にいうと、“シズル感”の多くを役者に寄っているドラマ版は、アニメの原作とするにはべらぼうにハードルの高い企画だったのだ。アニメ版は「ドラマ版をこう解釈したか」という魅力と、作品を支える「シズル感の不在」に引き裂かれている。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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