藤津亮太のアニメの門V 第1回「バケモノの子」の大衆性を支えるものとは | アニメ!アニメ!

藤津亮太のアニメの門V 第1回「バケモノの子」の大衆性を支えるものとは

藤津亮太さんの連載「アニメの門V」第1回目は2015年7月11日に公開を迎えた『バケモノの子』、細川守監督の最新作である本作について語る。毎月第1金曜日に更新。

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今回からアニメ時評「アニメの門V」を連載します。
このアニメ時評は2004年に月刊ニュータイプで始まり、その後、時々の中断をはさみつつ媒体を変えて現在まで続いています。2010年までの原稿については『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)にまとまっています。

※この原稿は映画のラストに触れています。

『サマーウォーズ』について「強靱な大衆性」と評したのは映画ジャーナリストの大高宏雄だったと記憶するが、『おおかみこどもの雨と雪』を挟んで発表された『バケモノの子』は、『サマーウォーズ』(興行収入16.5億円)以上に大衆性を打ち出した作品だった。前作『おおかみこどもの雨と雪』(興行収入42.2億円)越えたヒットになりそうな勢いも、納得の内容だ。
物語のポイントを逐一セリフでフォローすることで、大人も子供も同じように物語を受け取るように作られているのもヒットを後押ししているはずだ。

身寄りのいない少年が、渋天街というバケモノの街に迷い込み、熊徹という乱暴者のバケモノの弟子になる。離婚のため父のことをよく知らない少年・九太はやがて、熊徹と親子のような絆で結ばれていく。一方、熊徹は、渋天街宗主の後継者の一人と目されながらも、人望がない。そんな熊徹も、九太を弟子にとったことで変化していく。
九太の成長と熊徹の変化をテンポよく描く前半はシンプルでわかりやすい。これが後半になると九太が、バケモノの世界と人間の世界の間で迷う展開となり、少し構図が複雑になる。

まず九太を人間の世界に誘うキャラクターとして楓という少女と、子供のころ別れたきりだった父が登場する。そして二つ世界に引き裂かれた九太の“鏡像”として、九太と似た境遇にある一郎彦が心の闇に飲まれて暴走する姿が描かれる。
それぞれの要素が複雑に絡まり合っているが『バケモノの子』は、そこを「神の手」とかいいようのない絶妙な案配で、物語をコントロールしていく。目的は、熊徹と九太の関係を一番大事に描くこと。それ以外の要素は「神の手」によって、そこに奉仕するか、逆に邪魔にならないように存在を薄められるかのどちらかになっている。

九太にとって熊徹の存在は、一言でいうと移行対象だ。移行対象とは、本来は乳離れの時期に乳幼児が母親代わりに愛着する毛布やおしゃぶりなどを指す。ここから転じて、物語などで「親離れ」する際に、親代わりになるような存在を移行対象と呼ぶことも多い。たとえば映画『ユンカース・カム・ヒア』に出てくる言葉を解する犬・ユンカースは移行対象だ。
だから、九太は最終的に“熊徹”離れをして、人間の世界へ帰る。それが九太の成長となる。前半の展開からこの映画がそうなっていくのは極めて自然な流れといえる。

だが、バケモノの世界で8年も過ごしてしまった九太を人間の世界にソフトランディングさせるには、誰か相手が必要となる。そこで登場するのが、楓という少女と、子供のころ別れたきりだった父となる。
難しいのは、移行対象と別れた後に、向かう先がやはり父親となるとどうしても成長したようには見えない。かといって実際の父とのドラマの比重が増せば、天涯孤独な九太と熊徹が疑似家族的に結ばれるという主題の邪魔になる。しかし、父の存在を絶妙に薄く描くことで(デザインも非常に“薄い”)、そうしたドラマ上の混乱を起こさないようになっている。
かといって人間の世界にいる人が薄ければ、九太がこちらに帰ってくる理由も弱くなる。そこで配置されているのが、楓という少女だ。彼女は九太に「勉強」という動機を与え、二つの世界に引き裂かれて悩む彼の理解者として配置されている。ここでも彼女との関係が恋愛未満に留まっていることで、移行対象との別離=恋愛の成就という構図に陥らないようになっている。だからこそラストで渋天街にやってきた楓は、あくまでも九太に大学受験する気があるかを確認することになる。

そして、二人以上に「神の手」に左右されたのが、九太の“鏡像”として設定されたキャラクターが一郎彦だ。一郎彦は宗主後継者を巡って熊徹のライバルである猪王山の長男。強く人望のある父を尊敬し、腕っ節も強くて子供時代は人気者。だが、思春期になるとその性格は大きく変わり、暗く陰湿な面を隠し持つようになる。
実は一郎彦は、間の捨て子だったのだ。猪王山は人間の子が闇を宿すと知りながらも、自分が育てれば大丈夫だと思い育ててきたのだ。一郎彦の心の闇は、父への尊敬と、どうしても父のような猪の姿にならない自分の姿に引き裂かれて生まれたものだ。
自らも人間とバケモノの世界の狭間で闇に囚われそうになっていた九太が、暴走する一郎彦と向かい合うことで、映画はクライマックスへと向かう。

どうして九太は闇に対して踏みとどまれて、一郎彦は暴走したのか。九太には楓からもらったお守りがあったからだ。それによって九太は我を取り戻す。
では、一郎彦の人生には、楓のような存在はいなかったのだろうか。仕事人間らしく子供の面倒をみてない猪王山はともかく、優しそうな母や素直に天真爛漫な弟・二郎丸、あるいは子供時代に一郎彦を取り囲んでいた女の子たちなどと、彼はまったくそういう関係を取り結べなかったのだろうか。
特に、一郎太が人間であることを知っていた母親の胸中はかなり気になる。九太には熊徹との仲を取り持った、百秋坊や多々良がいたというのに。

もちろん物語にIFはない。九太にあった幸運な偶然は一郎彦には訪れなかったのは厳然とした事実だ。だからこそ、そこに「神の手」がのぞく。九太の成長を描くために、幸運な出会いを禁じられた一郎太。
そして、一郎彦は自らが引き起こした惨劇の後、目を覚ます。この時、彼は自分が何をしたか忘れているようだ。これもまた「神の手」である。彼がやったことを覚えていたら、その罪をどう着地させるか、質量ともにかなり重たいエピソードが必要となるはずだ。それでは、九太の物語から大きく話がそれてしまう。しかも、観客にとっても後味のよいものにはなりにくい。九太の物語として締めくくり、エンターテインメントとして丸く終わるためにも、一郎彦には、あそこですべてを忘れたかのような振る舞いが求められるのだ。ここでの「神の手」は一郎彦を救ったようでいて、実はそうではなく。観客の気持ちを救っているのである。

こうしてみると九太よりも、一郎彦の置かれた環境のほうが、ある意味リアルといえる。人間の子供でも自分が育てれば大丈夫と思った猪王山の増長。よき親、よき家族に囲まれていても、コミュニケーションの不足が孤独を生むこと。それが心の闇につながること。だがこれらの要素は、大人から子供まで楽しめるエンターテインメントを志向する本作の中心にはふさわしくない。

この「神の手」は、作り手の手練手管というよりも、この映画のルールのようなもので、この映画そのものが九太の人生を親のように見守っているかのようだ。そしてこのように本作の大衆性は間違いなくこのその「神の手」によって支えられている。この「神の手」が気になるか気にならないかで、映画の印象はかなり変わるだろう。
さらにいうならこの大衆性は、大学で学ぶ理由が曖昧なまま「高卒認定試験」に重要な位置を与える保守性とも深く結びついているように思う。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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