映画評 『東のエデン 劇場版 The King of Eden』 | アニメ!アニメ!

映画評 『東のエデン 劇場版 The King of Eden』

レビュー 実写

文;氷川竜介 (アニメ評論家)

 『攻殻機動隊S.A.C』、『精霊の守り人』と神山健治監督の送り出すアニメ作品に覚える好感度の所在——それが最近の監督の取材記事を読んで、ようやく腑におちた。「決してあきらめないこと」なのだ。神山監督自身、演出家になるため、またオリジナルのアニメ作品を世に送り出すため、断じてあきらめようとはしなかった。その成果としてTVシリーズ全11話と、その続編として公開される劇場版(全2部作)がある。当然、劇場パート1「The King of Eden」もまた、「あきらめない人たち」の物語なのである。
 とある理由でセレソン(=救世主)として抽出された12人の男女に、百億円がチャージされた「ノブレス携帯」が与えられる。その大金で日本を正しい方向へ導けるか否か。最初に達成できたと判定されたセレソンが「アガリ」になり、2位以下は抹消される。チャージを使いきってもダメ、私用もダメ。試されるのは知恵、求められるのは行動だ。支えるのはマネーパワー、手助けをするのは万能システム“ジュイス”だ。そしてセレソンのすべてを律するのは「ノブレス・オブリージュ=もてる者の義務」である……。
 このTVシリーズの基本設定に即し、最終回で主人公の滝沢朗はミサイル攻撃から日本を救って「この国の王様にしてくれ」とジュイスに願い、記憶を消して行方不明となった。劇場版は、そうやって不在になった主人公を探し求めるところから始まる。

 百億円とは、現代社会において実現可能な「魔法」のことだろう。ノブレス携帯の役割は「魔法のステッキ」で、ジュイスは魔法少女を導く「魔法の国の使者(ペット)」なのだ。そう考えると、描写が深められるセレソンたち(新登場あり)と各々チューンされたジュイスとの関係性が劇場版の大きなみどころになるのは自明と言えよう。
 TV版でも劇場版でも、滝沢は「記憶を失った」ところからスタートする。一般的に人格は記憶と同等・不可分なもので、行動を律すると思われている。百億円もの金を有していれば、なおのこと行動は記憶と金次第になるはずだ。ところがゼロスタートになった滝沢は、常にその時折の状況から周囲を把握し、最良の選択を行動としてとろうとする。決してあきらめずに。そこが彼が他のセレソン、あるいは「東のエデン」グループのメンバーとひと味違うところだ。重要なのは、滝沢が異分子として行動することで、誰もが彼に感化されて「あきらめない人たち」になっていくプロセスだ。波紋のように拡がり連鎖反応を、真摯だがユーモラスな行動の集積として描くところが『東のエデン』で最大の「お楽しみ」である。それは凝縮された時間を過ごす劇場での鑑賞によって、さらに際だつポイントである。
 TVシリーズを第1部とすれば、全3部作の第2部にあたる本作は、途中から始まり途中で終わり、映画の独立性を奪われる中間パートの宿命は逃れられていない。だが、それを補って余りある魅力とテーマ、メッセージの深化を見せる「決してあきらめない作品」なのである。

『東のエデン 劇場版 The King of Eden』 /http://juiz.jp/blog/
《animeanime》
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