藤津亮太のアニメの門V 第8回せめぎ合いこそが人生「父を探して」 | アニメ!アニメ!

藤津亮太のアニメの門V 第8回せめぎ合いこそが人生「父を探して」

藤津亮太さんの連載「アニメの門V」第8回目は3月19日からシアター・イメージ・フォーラムで上映が始まる『父を探して』をピックアップ。毎月第1金曜日に更新。

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先日、3月19日からシアター・イメージ・フォーラムで上映が始まる『父を探して』を試写で見た。とても感動的な映画だった。イメージ・フォーラム以外の映画館でも順次公開されるようなので、是非多くの人に見てもらえたらと思う。
本作はブラジル・インディペンデント・アニメーション界で注目を集めるアレ・アブレウ監督による長編アニメーション。2014年のアヌシー国際アニメーション映画祭でクリスタル(最高賞)と観客賞を同時受賞し、アカデミー賞長編アニメーション部門でもノミネートされた。

映画のあらすじはとてもシンプルだ。田舎で両親と幸せな生活を送っていた少年。だが、ある日、父親は列車に乗って、出稼ぎへと出かけてしまう。父親がいなくなり寂しい日々を過ごす少年。ある日彼は、父を探すための旅に出る。
旅の中で少年は、まず綿花を摘む仕事をしている老人と出会う。老人と働くうちに少年はまた誘われるように旅に出る。次ぎに少年が出会うのは、工場で働く孤独な青年。だが、やがて工場はオートメーション化されてしまう。青年が住む大都会には、どうやら独裁者がいるらしく、軍隊が大通りを進んでいく様子も描かれる。

鮮やかな色使いで描かれる自然、動物になぞらえた独特のシルエットの機械や乗り物たちが画面を賑やかに彩り、映像を見ているだけでも目に楽しい。その中で、観客の目をとらえて離さないのは、非常にシンプルに描かれたキャラクターだ。
予告を確認してもらえればすぐわかる。主人公の少年の顔はまん丸に描かれ、口はなく、頭には毛が三本。目は細長い楕円で描かれ、手脚は棒だ。そのほかのキャラクターもそれに準じた描き方をされている。
いわゆる「絵本が動き出したような」アニメーションであるのは間違いない。しかし、この「絵本のような」表現は、その中にかなり直接的な具体性も孕んでいる。

たとえば老人が従事する、綿花の摘み取り。綿花はブラジルの輸出品目の一つ。調べて見ると、10年ほど前でも、綿花の摘み取りは季節労働者が担っていたことがわかる。
あるいは少年が街で見ることになる軍隊。音楽を楽しもうとする人々を抑えつけようとする風景は、1985年まで21年にわたって続いた軍事独裁政権の記憶が反映されている。
日本人には、こうしたディティールに、リアリティがあることには気づきづらいかもしれない。しかし、これらはブラジルの人たちにしてみればおそらく「ああ!」と思えるようなリアリティのある描写なのだ。

しかし、ここで大事なのはではこういう具体的なデティールが、この映画では「ブラジルを知らなければわからない」という固有性を越えていることだ。
 たとえば貧しい農業(一次産業)から工業化による都市化と、それによる疎外(孤独)の顕在化という、ストーリーの流れにそって出てくる要素を見れば、これは日本でも起きていた出来事だ。たとえば、こうしたテーマを扱った日本映画は多い。アニメについていうなら『太陽の王子ホルスの大冒険』も、60年代に「農家の子供が工場労働者になる」という大変動があったことの中におくと、どうしてホルスが外来者で仲間を求めなくてはいけないのか、その意味合いがよりクリアになる。また当欄が知っている範囲では『マクダル パイナップルパン王子』(これも不在の父をめぐる物語でもあった)で描かれた、どんどん作り替えられていく街の風景と、幼稚園で踊る子供たちという風景で描かれていたこととも通じる部分がある。つまり、この映画は「誰か」の物語であり、同時に「私たち」の物語であるのだ。

もちろん、そういった読み解きを排して、主人公の少年のめくるめく旅の体験だけに寄り添ってもこの映画は十分おもしろい。
このように本作はそのように、具体性が弱いようにみえる絵柄でありながら、具体性を孕み、同時に抽象的でもある。その具体性と抽象性の往還が、この映画の中心にあるのだ。
具体性と抽象性の往還以外にも、本作には矛盾に見える2極を行き来している要素がある。だが、それを詳述すると、本作の大事なエンディングに触れることになる。以下に婉曲には描くが、これまでの記述で面白そうだと思ったらここで原稿を読むのをやめて、映画館に足を運んでほしい。

この映画は「人生の円環」を扱っている。それは一定の年齢以上になった人間なら感じるであろうし、ストーリーテリングとしても極めて見事に映画を締めくくっている。映画を見終わると、こうした「時間の円環」の中を生きているのが人間だということが実感できる。
では、人間はこの「人生の円環」の中にしかいないのか。行き先は決まっているのか。そう思った時に、観客は気がつくはずだ。この映画そのものが、「真っ直ぐに伸びていく線路」に導かれるように少年が旅に出るところから始まっていたことを。
人生は円環かもしれない。でも、それはその瞬間には“直線”にしか見えない、極めて大きな円環なのだ。戻ってきてみて始めてわかる「円環」。本作はそれをきわめて映画らしく描き出してみせたのだ。
そして子供とはその「直線性」を信じて、親の人生の円環から飛び出していく存在なのだ。もちろんその子供も、やがては「人生の円環」に気づくだろう。つまり、この直線と円環のせめぎ合いこそが人生であると本作は語っているのである。
そこでは、この映画に登場する人物たちは、「大きな円環上の立っている位置が違う存在」でありなら「誰とも交わらない固有の直線」であるということになり、それはつまり原稿の前半で書いたように「私であり、同時に誰かでもある物語」ということになる。
固有性から発して普遍性に至る語り口こそ、本作を傑作たらしめているのである。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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