「君たちはどう生きるか」このタイトルでなくてはならなかった理由―【藤津亮太のアニメの門V 第97回】 | アニメ!アニメ!

「君たちはどう生きるか」このタイトルでなくてはならなかった理由―【藤津亮太のアニメの門V 第97回】

『君たちはどう生きるか』は、シンプルなストーリーの上に、この世界の様々な要素をモザイクのように散りばめた作品だ。これらをひとつのルールで読み解いてしまうということは、それは単なる寓話化に過ぎなくなってしまうのではないだろうか。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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※以下の本文にて、本テーマの特性上、作品未視聴の方にとっては“ネタバレ”に触れる記述を含みます。読み進める際はご注意下さい。

『君たちはどう生きるか』は、シンプルなストーリーの上に、この世界の様々な要素をモザイクのように散りばめた作品だ。だからスケールの異なる「極私的なディテール」と「文明についての考察」が同居するし、「誕生と死が共存するエピソード」と「不気味なモンスター(インコ)に食べられるかもしれない恐怖」が同じテーブルに載っている。  

しかし、バラバラに見える諸要素は、だからこそ全体として“世界”というものを形作っているのであり、これらをひとつのルールで読み解いてしまうということは、それは単なる寓話化に過ぎなくなってしまうのではないだろうか。
この「寓話化」を避けて読むという姿勢については、中条省平が、カミュの『ペスト』を解説した『100分de名著』の中で触れている。  

中条は、『ペスト』がしばしば、ナチス・ドイツをペストに見立て、カミュのレジスタンスの経験が反映している、という読みを取り上げて「これはおそらく倒錯した読み方です」と指摘する。最初にレジスタンスという英雄的な主題を描こうという意図があったわけではなく、むしろ逆で、災厄が人間を襲うことの不条理性とその恐怖が、出発点になっていると思うのです。」「(そういう様々な災厄に対する)認識の集約が、たとえば戦争であり、ここではペストである」、と。  

「結果的に登場人物たちの行動がレジスタンスのように見えたとしても、戦中のカミュのレジスタンス経験を反映していると考えてしまうと、それは単なる寓話化に過ぎなくなってしまいます。」  
中条はここで『ペスト』という作品を「寓話化」してしまうことで、作品がカミュの体験の中へ小さく畳み込まれてしまうことを危惧している。作家が体験したことの反映を含みつつも、そこから深められていった思考の先にある作品を取り扱う時、この「寓話化」の欲望をコントロールしなくては、作品を広く開くことには繋がらない。  
では寓話化の欲求にできる限り抗いつつ、『君たちはどう生きるか』を読むとすればどうなるか。  

全体の構成は、既に指摘されている通り、ヒントになったといわれる『失われしものたちの本』(ジョン・コナリー、訳:田内志文、東京創元社)を非常に似ている。母の死と父の再婚、そして再婚相手の出産という主人公を取り巻く環境。さらに、主人公が異世界に足を踏み入れ、さまざまな人に助けられながら、「失われたものたちの本」を持つ王のもとを目指すという展開なども、映画と共通点を感じさせるところがある。  

そもそも、なんらかの満たされていない感情を持つ人間が異世界への旅に出て、なんらかの変化をして帰郷するという展開は、「行きて帰りし物語」と呼ばれる、ファンタジーの典型的な物語構成である。『失われしものたちの本』が本作にインスパイアを多く与えているのは間違いないが、元ネタというよりは、『君たちはどう生きるか』という映画を産み落とすための産婆のようなものではなかったかと想像される。  

映画は、戦争が始まって3年目の年に、火災で主人公・眞人の母が死ぬところから始まる。その1年後、眞人は東京を離れ、母の故郷のお屋敷で過ごすことになる。そこで眞人を待っていたのは、父の再婚相手で、母の妹である夏子だった。夏子は既に父の子供を身ごもっていた。  

屋敷の敷地には封鎖された「塔」が建っていた。行方不明になった夏子を探す中、眞人は、怪しげなアオサギに導かれて、この「塔の世界」へと足を踏み入れることになる。
この「塔の世界」のエピソードは、大きく3つのパートに分けられる。  


《藤津亮太》
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