藤津亮太のアニメの門V 第7回魅了する「傷物語」「昭和元禄落語心中」の演出

連載・コラム

今回は見ながらその演出に魅了された2作品を取り上げる。演出という言葉は、指し示す範囲が広すぎて扱いが難しいのだが、ここでは、作品の各要素に方向付け(ディレクション)をして、作品のフォルムを形づくる作業と位置づけておこう。

最初に取り上げるのは『傷物語I 鉄血篇』だ。「物語」シリーズの2作目にあたり、時系列でいうと“エピソードゼロ”に相当する一番古い物語になる。
この『鉄血篇』は「死と生が表裏一体」であることが表現の中心にある。それはもちろんストーリーの大枠が「主人公・阿良々木暦が死にかけた吸血鬼と出会い、その眷属となる」というものであることに寄っている。だが、作品を見ていると、原作の読解として「死と生が表裏一体」が導き出されたのではなく、むしろ「死と生が表裏一体」という本質の上に「原作のエピソード」が乗っているように感じられる。

アヴァンタイトルで、阿良々木暦は廃墟をさまよい、屋上へと出る。狭い場所から解放された空間への移動は、「出産」をイメージさせることから誕生へのイメージとしてしばしば使用される、
ところがこの「誕生」のイメージは、その直後に反転する。厚い雲の中から、太陽が顔を出し(太陽が顔を出す描写も多くは「生」を実感させるシーンで使われることが多い)、突如、その光のせいで暦の体は突如燃え出してしまう。そして、暦は屋上から落下する。

室内から室外へと移動することによって生まれた「誕生」のイメージが、太陽に照らさたことで「死」のイメージへと反転する。この落差、この反転が本作の中心にある。
アヴァンではなんの説明もなかったが、ストーリーが進み始めると本作が、普通の高校生だった暦が、吸血鬼キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードにと出会い眷属へと“生まれ直す”のが基本のストーリーであることがわかってくる。
そのため「死にかけたキスショットが暦の血によって再生する」「暦は全身の血を奪われ眷属となる」「眷属となった暦が死にかけたところを再生したキスショットが救う」と、何度も「生と死が表裏一体」であることが描かれる。瀕死のキスショットの命乞いが、赤ん坊の泣き声として地下鉄構内に響き渡るシーンなどはまさに、「生と死が表裏一体」であるイメージを伝えていた。
この「死と生」のイメージは、□と○になぞらえることもできる。スクェアで揺らぐことのない四角。映像中では、3DCGも駆使したらしい背景がこの四角に相当する。そして、その中でうごめく、柔らかく可塑性のある○。スクェアでソリッドな四角の中に、柔らかくすぐに形を変えてしまう○が置かれる。本編中の映像でいうなら、地下鉄のホームの冷たい床と、そこに飛び散った赤いキスショットの血。これもまた四角と丸のコラボレーションで、日の丸がこの映画の冒頭に置かていたことと整合性があるように見える。 

本作はそうした全体のコンセプトの徹底に加え、前半の羽川翼と暦のやりとりをするシーンの組み立てが面白く(キャラクターの方向性とセリフの関係に注目)、その点でも見応えがある1作だった。
《藤津亮太》

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