藤津亮太のアニメの門V 第6回キッズ・ファミリー向けアニメに見る「アニメの家族」 | アニメ!アニメ!

藤津亮太のアニメの門V 第6回キッズ・ファミリー向けアニメに見る「アニメの家族」

藤津亮太さんの連載「アニメの門V」第6回目は「アニメの家族」について。キッズ向け、ファミリー向けのアニメに見る家族の形を考えます。毎月第1金曜日に更新。

連載
注目記事
 
  •  
年末年始のラジオで相次いで「アニメの家族」について質問を受けた。年末年始は家族と過ごすことが多いから、これを期に家族について考えてみようということらしい。「アニメの家族」については、ちょうど1年ほど前の雑誌『考える人』にも寄稿したことがあるが、ラジオで触れたことに補足しつつ、改めて「アニメの家族」について、キッズ向けファミリー向けの作品を中心に考えてみたい。

まず確認したいのは「フィクションは現実の影響を受けている」ということ。「フィクションが現実に影響を与える」こともゼロではないだろうが、その範囲は極めて限定的と考えたほうが合理的だ。

一方で、フィクションの都合というか、キャラクターが動かしやすいために採用されてきたある種定型化したスタイルもある。たとえば「両親が長期出張中」という設定は、子供たちに自由に行動させるための方便としてさまざまな作品で採用されている。
そしてその上で、作り手が「こういう家族像はどうだろう」想像力でもって作品に込める思いもある。この想像力の種として、現実の家族のあり方が参照されることもある。ただこれは「現実の反映」というより、「現実の戯画化」であったり「半歩先の姿」になる場合が多い。
「アニメにおける家族」は、この三つのせめぎ合いで成り立っているのだ。
ラジオでは大まかにこの「フィクションは現実の影響を受ける」という変化を中心について説明した。

かつて主人公サイドのお母さんキャラクターの多くは、専業主婦として描かれていたが、'83年の『魔法の天使クリィミーマミ』になると自営業(クレープ店)で共に働いている、という設定になっている。またたんに働いているだけでなく、お互いを愛称で呼び合ったり、夫が家事をするシーンもでてくるなど、イコールパートナーであることが強調される。
主人公の森沢優は'73年生まれの10歳。母のなつめは28歳という設定だから、おそらく'55年生まれ。団塊の世代以降の、東京郊外に住むニューファミリーがある程度のリアリズムで描き出されていることがわかる。精査すれば先行例が見つかるかもしれないが、『クリィミーマミ』はアニメにおけるニューファミリーをある程度のリアリティでもって描いた極初期の作品とはいえる。

ちなみに「男性雇用者と無業の妻からなる世帯」と「雇用者の共働き世帯」の数が逆転するのは'97年(参考:http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h25/gaiyou/html/honpen/b1_s02.html)。
この変化を踏まえれば'99年からスタートした『おジャ魔女どれみ』のメインキャラクターたちの両親がほとんど共働きをしているのも納得がいく。主人公どれみの母はるかは専業主婦であるが、こういった状況だと「人生の選択肢の一つ」として見えてくる。この傾向は『プリキュア』シリーズにも受け継がれ(作品の方向性によるばらつきはあれど)、「働くお母さん像」というものは当たり前になっている。

ここで思い出すのは『クレヨンしんちゃん』と『サザエさん』のことだ。
『クレヨンしんちゃん』は埼玉県春日部市に住む野原一家が登場する本作は、今や日本を代表するファミリー(ギャグ)アニメと言っていいだろう。本作では主人公しんのすけの母みさえは専業主婦として描かれている(しかもサラリーマンの苦労に比べ、主婦の仕事はより戯画化されている)。
同じような国民的ファミリーアニメ『ちびまる子ちゃん』は'70年代の家族をベースにしていると理解できれば、お母さんが専業主婦である違和感は薄い。では『しんちゃん』はな専業主婦という設定を採用したのか。ちなみに2014年には共働き世代は1054万世帯、男性雇用者と無業の妻からなる世帯は787万世帯。グラフを見るとこの差は開く傾向にある。

これは「現実の反映」では説明できない。むしろ「未就学の児童が周囲の大人をおちょくる」というギャグの構造から導き出された、「もっとも身近な大人」としての専業主婦像であろう。専業主婦でなくてはあそこまで未就学の児童と絡むことはできない。また共に勤め人だと夫ひろしとのキャラかぶりも発生する。つまりここでは現実よりも、フィクション(ギャグ)の都合がまさっているのだ。
これはつまり作品がおもしろければ、仮に専業主婦が少数派という時代になっても「マンガの設定」という形で、ずっと残っていくということでもある。ちょうど『サザエさん』のように。

そして『サザエさん』は、そもそもアニメ放送開始の'69年以前に大ブームを起こしているマンガが原作で、しばしば指摘される通り、家族の描写は相当に「古い」。たとえば波平もマスオも台所に立たないし、フネもサザエも専業主婦である。フネと波平に至っては部屋着が和服である。だから『サザエさん』を見てると、「こういう古さを抱えた家族像」がどうして今なお作品として生き残ることができたのか、という点が興味深く思えてくる。
これはおそらく磯野家、フグ田家という家族の二重構造に理由がある。3世代が同居しているが『サザエさん』には実質的に「嫁」が不在である。サザエは嫁いでフグ田家の人間になったものの、夫ともに実家に同居している。そのため、日本の伝統的な家族制度を語る時に、難しい問題を孕む「嫁(と舅・姑)」の問題に触れずに済ますことができるのだ。サザエは嫁ではないため、サザエ、マスオ、タラオの家族にフォーカスすればニューファミリー的に見えなくもない。

原作で偶然生まれた家族構成が、変化していく家族関係にかろうじて対応できる余地を持っていたことが『サザエさん』をここまで長らえさせたのだ。そして長らえた結果、「一般的視聴者の反映」ではなく「サザエさんちの日常を垣間見る」番組に変質しているのだ。

「フィクションは現実を反映する」のならば今後描かれるファミリー・キッズアニメの家族像はどうなっていくだろうか。
個人的にもっと登場してほしいと思うのが、シングルファミリーだ。たとえば離婚件数は1980年代と比較して、およそ10万件も増加し、現在25万件前後に達しているという。子供たちの身の回りに一人親家族はもはや珍しくない。
その点で『おジャ魔女どれみ』の妹尾あいこの設定(タクシー運転手の父親と二人暮らし。離婚した母は大阪でケースワーカーをしている)は非常に先駆的だった。いくつかのハードルはあるだろうが(両親同士の愛情が冷めたり、いがみ合ったというエピソードは子供にはストレスの強い要素ではある)が、もっとフィクションに反映されてよい要素ではあると思う。

そのほかにも片親が外国人(特に非欧米人)の家族がいてもいいし、現実の半歩先を行くなら同性婚して養子をとった家族がいてもいい。新しいブランドのファミリーアニメが出にくい時代だけれど、「現実」と「作劇の都合」と「作り手の思い」がしっかり拮抗した新しい家族像がそろそろ見たくもある。
《藤津亮太》
【注目の記事】[PR]

編集部おすすめのニュース

特集