マンガはなぜ赦されたのか -フランスにおける日本のマンガ- 第3回「グレナはなぜマンガ出版に乗り出したのか」 | アニメ!アニメ!

マンガはなぜ赦されたのか -フランスにおける日本のマンガ- 第3回「グレナはなぜマンガ出版に乗り出したのか」

短期集中連載(毎日曜・水曜更新)、全8回予定。■ 豊永真美 [昭和女子大現代ビジネス研究所研究員]シャルリ・エブドから生まれた奇才 ジャック・グレナはなぜマンガ出版に乗り出したのか。

連載
注目記事
[第3章 シャルリ・エブドから生まれた奇才
ジャック・グレナはなぜマンガ出版に乗り出したのか]

■ 豊永真美
[昭和女子大現代ビジネス研究所研究員]

■ ジャック・グレナとシャルリ・エブド

00年代前半のフランスを代表するマンガ出版社は「One Piece」を出版するグレナと、「NARUTO」を出版するKana(メディア・パルティシパシオンのマンガレーベル)の2社であった。このうち、グレナは創業者ジャック・グレナが一代で築いた出版社で、フランスでバンド・デシネとマンガを出版するほか、旅行のガイドブックなども出版する。本社がジャック・グレナの出身地のスイス国境に近いグルノーブルにあり、グルノーブルを代表する企業ともなっている。
社長のジャック・グレナは積極的にメディアに出るほうではない。メディアの露出を好まないジャック・グレナが自ら進んでテレビ出演することとなったのが、2015年1月7日に起こったシャルリ・エブド襲撃事件の犠牲者追悼のためのテレビのニュース特番である。フランスのバンド・デシネの作家5人を含む12人が殺害された事件だが、この5人の作家に深い哀悼の意を示すためにジャック・グレナは複数のテレビ番組に出演した。

ジャック・グレナは大学進学のため、グルノーブルからパリに出てきたが、1969年に創刊された「シャルリ・マンスエル」でアルバイトも始めた。グレナはバンド・デシネの大ファンであり、高校時代、自主制作でバンド・デシネの評論誌も出していたほどだったからである。当時のシャルリ・マンスエルの編集長は2015年のシャルリ・エブド襲撃事件で命を落としたジョルジュ・ウォランスキであった。ウォランスキはこの月刊誌に次のようなキャッチフレーズをつける「シャルリ。マンガ以外のものが読める人のための唯一のマンガ雑誌」。 ジャック・グレナは「シャルリ・マンスエル」で雑用のほか、バンド・デシネの評論も始める。ジャック・グレナは大学の薬学部に在籍していたが、大学を中退し、本格的にバンド・デシネの世界で生業を立てることを決意する。
ジャック・グレナにとって「シャルリ・マンスエル」は最初の仕事をはじめた場所であり、グレナがバンド・デシネの世界でやっていけると確信するようになった場所でもある。ジャック・グレナの出発点といえるのが「シャルリ・マンスエル」であり、ジャック・グレナが哀悼の意を示すのは当然であった。

ジャック・グレナが出版社グレナを創立したのは1974年で、若い作家が中心のバンド・デシネの出版を始める。最初はバンド・デシネの季刊誌「Canard Sauvage(野生の鴨)」を出版した(*10)。この季刊誌はどうやら7巻くらいで廃刊になったようだが、その時バンド・デシネの作家たちと知り合いになることができた。
その後、1975年に月刊のバンド・デシネ誌「Circus(サーカス)」を創刊し、ここから、経営が安定してきたようだ。注目すべきはこの時期、まだ雑誌が主流だったということだ。フランスのバンド・デシネをみると、現在は、「アルバム」と呼ばれる単行本を年1回出すという形式が主流だが、この頃は、雑誌が重要であった。そして、雑誌をもったグレナは複数の作家とコンタクトを持つことができるようになった。Circusは1989年に第130号を出すまで続いた。グレナはシャルリと同様雑誌から始めたメディアなのだ。

70年代のフランスでは「メタル・ユルラン(Metal hurlant へヴィ・メタルという意味)」(1975年-1987年)、「ア・スイーヴル(A suivre 続くという意味)」(1978年-1997年)(ア・スイーヴルはベルギーで発刊されていた)など、大人向けのバンド・デシネ雑誌が次々と創刊された時代だった。
雑誌で経営が安定したグレナは1981年には、グルノーブルという立地条件から山岳関係と海洋関係の出版社を買収し、旅行ガイドや自然関係の出版物を出すようになった。グレナは徐々に出版の範囲を広げていく。
《アニメ!アニメ!ビズ/animeanime.biz》
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