伝説の萌えソングユニット「UNDER17」の結成から解散まで…そして16年ぶり復活への想い 小池雅也【インタビュー】 2ページ目 | アニメ!アニメ!

伝説の萌えソングユニット「UNDER17」の結成から解散まで…そして16年ぶり復活への想い 小池雅也【インタビュー】

2002年から2004年までの、わずか2年間の活動期間にも関わらず、今なおオタクの間やエンタメ業界で語り継がれる存在「UNDER17」。ギター担当で現在は「ULTRA-PRISM」として活動する小池雅也さんに当時を振り返っていただいた。

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■UNDER17の思い出


UNDER17結成の経緯については、インタビュー前編でお伝えした通り。渡辺浩弐さんの紹介で桃井さんと出逢ったのがきっかけだ。

「当時はまだオタク文化がアンダーグラウンドな存在で、世間一般にはそれほど浸透していない時代でした。僕はオタク文化に嫌悪感はありませんでしたが、もともとバンド畑の人間ですし、それほど詳しくもなかったんです。

あの頃は個人でも音楽制作ができるくらい色々な機材が登場した、まさに最初の時代でした。それなりに羽振りが良かった僕はシンセサイザーやら何やらを買い込み、部屋にズラッと並べて仕事をしていたんです。

当時はハイスペックだったYAMAHAのシーケンサー『QX1』はあの時50万くらいしたのかな? 今は中古屋で2万くらいですよ(笑)。そういった機材を活用してアレンジしたり歌を録ってミックスしていましたね。
それで作ったのが桃井のメジャー・ソロデビュー曲の『Mail Me』です」

桃井さんとの共同作業では、アレンジ面で工夫を凝らしたという。

▼これが小池さんのギタープレイだ!
「彼女が得意としていたのはアイドルソングでしたが、僕はギター中心のロック畑の人間です。アイドルソングとロックは合う要素ではないですし、ギターそのものも、当時は『ギターソロはかっこ悪い』と言われた時代でした。
でもあの頃、あえてそれをやろうということになったんです。

僕自身、まだUNDER17を結成する前に、六本木あたりでハウスミュージックのDJのトラックの手伝いをしていたことがありました。その頃からローランドのMC-50マイクロ・コンポーザーを使ったダンス系のシンセサイザーをしていたのですが、それに桃井の声を乗せようと思いついたんです。

でもそれだけでは温い音楽になると思い、桃井のキャンディーボイスにゴリゴリのギターを乗せることで彼女の声を引き立てようとしました。スイカに塩を振るようなものですね(笑)。

お互い探り探り作っていましたね。僕の仕事場には機材があったので、そこに桃井が来て、『こんなイメージ』となんとなくコードを打ち込んで、軽く歌って、それに対してアレンジして桃井を帰すという感じでした。

あの頃は、特に声優さんの楽曲はご本人の声を立たせるために、バックの音量を絞る傾向にありました。でも僕はそうしたくなかったんです。ちゃんとアーティストとして成立させたかったんです。

それが桃井の意図していたことかどうかは分かりません。でもミックスやアレンジは委ねられていたので、他は譲ってもそこは主張させていただきました。
ですから『萌えソングのアーティスト』の意識は特にありませんでしたね」


小池さんは「萌え」が何なのか、いまだに分からないと人の良い笑みを浮かべながら語る。

「当時、何でジャケットに女の子の絵が描かれているのか不思議に思ったものですよ(笑)。それが萌えだと言われても、……そっか、ですよね(笑)」

手応えを最初に感じたのは、ゲーム『いちご打』の主題歌『いちごGO!GO!』を世に送り出した2001年のことだ。

「まず秋葉原のゲーム屋さんでデモ画面が流れたんです。でも僕はその様子を直に見たわけではありませんし、当時はネットも一般的ではありませんでしたから、人づてに『反応が凄いですよ!』と聞いただけでした。特に実感はありませんでしたね(笑)。

変わったのは、そのゲームの発売イベントではじめてお客さんと接してみて、肌で熱気を感じてからです。秋葉原の今で言うメイド喫茶のようなところが会場だったので、お客さんの数は多くありません。でもあの熱気は今も印象に残っています」

手応えを感じつつも、自分たちの人気のほどは2003年に開催されたワンマンライブ「UNDER17 LIVE2003」の時点でも半信半疑だったようだ。

「事前に、スタッフから『これだけお客さんが来ますよ』とは伝えられていましたが、TVに出ている有名人でもありませんし、どれだけ知名度があって人気があるのか、まったく実感がありませんでした。
それに誰もやっていないジャンルですからね。とにかく半信半疑のままステージに立っていました」

そんな中、小池さんの口から思わぬ言葉が飛び出す。

「実はあの頃、すでに一度解散するという話が出ていたんです」


■2003年の解散危機



「2003年時点の解散話は、べつに仲違いしていたわけではなく、自然とそんな流れになっていましたね。

どのアーティストも一緒だと思います。ひとつのジャンルで売れるとそればかり求められますよね。それで消費されていく。
当時は今みたいにアニソンのタイアップがすぐに決まるような時代ではありませんでしたから、少ないチャンスの中で、自分たちがやりたい音楽と、求められる音楽の間に挟まれて、僕も桃井もお互いに悶々としていました。

アーティストとして、そしてクリエイターとしては、つねに新しいものを追いかけたい気持ちはあると思います。それは僕も同じでした。でも、求めに応じるのもクリエイターの仕事だと思うんです。だから『今は求められるものをやるべきじゃない?』って。

そうなるとお互いの方向性にズレが生じていく。周りの大人からしたら桃井だけでも……という気持ちはあったでしょう。桃井からすると、僕以外の人間とも音楽をやりたいと思っていたんじゃないですかね。でもUNDER17というユニットで売れてしまいましたから、僕がいないと成り立たない部分もあります。

僕は解散するつもりはありませんでしたし、むしろUNDER17を続けたいという気持ちが強くありました。あの当時は。そのあたりの認識のズレが次第に大きくなっていったんでしょうね」

結局、2003年の解散危機は回避された。
当時はライブが一本決まっており、その会場が見つかったら活動継続、見つからなかったら解散という方針で話を収めたという。

吹っ切れたように当時のことを語る小池さん。もっとも印象に残ったのはこの言葉だった。

「まだUNDER17をやる前の、自分たちで好き勝手に音楽を作っていた時の方が楽しかったですね」



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《気賀沢 昌志》
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