高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第6回 「おそ松さん」を描く―「『描く!』マンガ展」からアニメを考える

連載・コラム

■ 高瀬司(たかせ・つかさ)
サブカルチャー批評ZINE『Merca』主宰。ほか『ユリイカ』(青土社)や各種アニメ・マンガ媒体への寄稿、「SUGOI JAPAN」(読売新聞社)アニメ部門セレクター、「Drawing with Wacom」(Wacom)などイラストレーター、デジタルアーティストによるLive Painting企画でのインタビュー・メイキング動画ディレクションなど。
Merca公式ブログ:http://animerca.blog117.fc2.com/

■ 『おそ松さん』を描く――「『描く!』マンガ展」からアニメを考える

マンガ評論家の伊藤剛は、監修を務める展覧会「『描く!』マンガ展~名作を生む画技に迫る―描線・コマ・キャラ~」のコンセプトに、「描く読者」を据えている。そのため展示内容は出展作家の生原画(一部複製原画)に加え、「マンガを含めたキャラクター文化を楽しむ人びとというのは、非常に高い割合で自分でも「描く」」【注01】という認識のもと、かつて「描く読者」であったマンガ家の原点となる作品や、時代ごとに異なるデビューへの登竜門となったメディアの資料群、そして次世代のクリエイションに関わるだろう現在の「描く読者」をめぐる(デジタル)環境にまでおよぶ。

▼注01:『月刊MdN』(インプレス)2016年3月号(特集:漫画家が発明した表現30)74頁の伊藤剛談話より。なお誌面上のクレジットは編集部となっているが、マンガ家・いしかわじゅん、およびマンガ研究者・夏目房之介のロングインタビューとともに、取材・文は高瀬が担当。

2015年8月1日からの大分県立美術館での展示を皮切りに、北九州市漫画ミュージアムを経て、2016年2月11日より群馬県は高崎市美術館に巡回してきたことで、ようやく首都圏からもアクセスがしやすくなった本展は、マンガファンのみならず、アニメファンへも様々な示唆を与えてくれる貴重な展覧会となっている。

ごく素朴なレベルで考えても、トキワ荘の面々(手塚治虫【※塚は正しくは旧字体】、石ノ森章太郎【※ノは正しくは小さいノ】、水野英子、赤塚不二夫、藤子不二雄A【※Aは正しくは丸A】)にはじまり、さいとう・たかを、竹宮恵子【※恵は正しくは旧字体】、陸奥A子、諸星大二郎、島本和彦、平野耕太、あずまきよひこ、PEACH-PITという、世代を越えた錚々たる(そして伊藤の批評的問題意識が強く反映されたと言っていいだろう)出展作家陣ゆえに、メディアミックス展開された作品も多く、アニメファンにとっても馴染み深い名作の展示が少なくない。

それだけでも駆けつけるだけの価値があるだろうが、なかでもとりわけ、ギャグマンガ家の先駆・赤塚不二夫は、2016年初頭において極めてタイムリーな作家と言えるだろう。

それというのも現在――2016年のアニメファンにとってはもはや説明の必要はないかもしれないが――、赤塚不二夫の『おそ松くん』(1962年連載開始)を原作に、そこから十数年後の世界で(27年前のTVアニメ第2作OPがバブル期のサラリーマンの悲哀を描いていたこと、あるいは『天才バカボン』のTVアニメ第1作でバカボンのパパが原作の無職から植木屋に変更されたこととは対照的に)ニートと化している六つ子を主人公としたTVアニメ『おそ松さん』が、女性ファンを中心に爆発的なヒットを記録しているからだ。

付録つきや表紙を飾る雑誌の相次ぐ完売騒動をはじめ、パッケージのセールスも近年で最大級となり大きな話題を呼んだ。人気の理由については多様な解釈がありうるだろうが、その一つはまさに「描く」ことと関わるものだろう。
「pixiv」における「おそ松さん」タグの氾濫は言うまでもないが、そもそもにおいて原作であるマンガ『おそ松くん』自体が、連載されていた1960年代の水準で見てもやや古めかしい、記号性が高く単純な絵柄によって、当時の他の作品と比べても「描く読者」に支持された作品であったことは見逃せない【注02】。

▼注2:マンガ評論家の(というよりはいまや「コミックマーケット」の創立メンバーであり1980年から亡くなる2006年まで代表を務めた人物として知られているのかもしれないが)米沢嘉博は『戦後ギャグマンガ史』(新評社、1981年/文庫版:筑摩書房、2009年)において赤塚不二夫『おそ松くん』を、週刊少年マンガ誌という新しいメディアとともに生まれた、ジャンルとしてのギャグマンガのはじまりと位置づけたうえで「イヤミやチビ太は面白いキャラであると同時に、ペットマークでもあった。誰にでも描ける簡単さは、読者の少年達の間で真似され、それを描けることが面白いこととされた。流行語をしゃべることと、イヤミを描くこと、そしてそこで使用されたギャグを使うことは同等の意味を持っていた」(文庫版、p.153)と、作品人気と「描く」ことの密接な関係について述べている。

キャラクターを描きやすいこと。描くことによって人気が感染すること。
もちろん今回の『おそ松さん』における六つ子は、原作や過去のアニメ化における描き分けのない造形――平成版ED「おそ松くん音頭」の歌詞(おそ松のズボンをカラ松がはいて~)は象徴的だろう――に対して、それぞれに識別可能な差異を設けるという大胆なアレンジを加えたうえで、『ぱにぽにだっしゅ!』(2005年)などの新房昭之×シャフト作品を思い浮かべやすい、毒々しくもポップなビジュアルセンスと現代的なシルエットでデザインされてはいるが【注03】、それらしいイラストを描くのに高い画力を必要としない点ではこれまでと変わらないだろう。

▼注03:TVアニメ『おそ松さん』からは、そのポップなビジュアルとともに、小ネタ満載のコント性やメタネタ・楽屋落ちも含めたパロディへの態度などからTVアニメ『ぱにぽにだっしゅ!』(2005年)を連想した視聴者が少なくないようだが、その印象には系譜的な正当性(還流)があるように思える。というのも、尾石達也や大沼心、あるいは宮本幸裕、龍輪直征といったコアメンバーがネタを出しあい、そのなかで生まれた膨大なアイディアが作品の端々に敷き詰められる(とくに初期における)新房昭之×シャフトの制作スタイルは、そもそもにおいて、長谷邦夫、古谷三敏、高井研一郎、横山孝雄、北見けんいち等のブレーンや共同執筆者、さらには担当編集者まで巻き込んでのいわく「アイデア会議」をもとに創作が行われていた赤塚不二夫/フジオ・プロダクションを連想させるところがあったからだ(このスタイル/構造については、以前も言及したことのある「システムとしての作家像」として、今後あらためて論じなおしたい)。

ところで、さきほど「pixiv」の名前をあげたが、このSNSは「『描く!』マンガ展」におけるキーとなる展示の一つでもある。
それというのも、本展の(少なくとも高崎市美術館の展示においては)入り口にプロローグかつエピローグとして、「pixiv」の(一定間隔でリロードされた=リアルタイムの)「みんなの新着作品」画面が壁面にプロジェクションされているからだ。
もちろん、「pixiv」上の作品のほとんどはデジタルツールで描かれたカラーの「キャラクターイラストレーション」であり、マンガではない。しかしここからは、キャラクターイラストレーションを、二次創作というマンガの消費形態のあり方、「描く読者」がマンガ家になるために経る想像力の基盤、あるいはレコードのジャケット画にはじまり、イラストレーションやファイン・アートといった多様な画風を取り込みながら発展してきたマンガの表現を考察するうえでも欠かせない、マンガ文化を支える重要なプラットフォームと見なす視点が読み取れる。

そしてこれは、そのまま同時に、アニメの消費形態のあり方、あるいはマンガ文化を基盤とするアニメの表現を考察するうえでも、キャラクターイラストレーション(の持つ幅広いビジュアル)に注目すべき必然性をも物語っているだろう。
こと近年のアニメにおいては、コンポジット(撮影)の高度化を背景に、表現可能なキャラクター/画面の質感や色面、ライティングの情報量の幅が大きく広がっている。かつての撮影台のオペレーター(と言うのはあくまで乱暴な整理だが)という役割から、1990年代以降のデジタル化の進展を契機に、マシンスペックやソフトウェアの高性能化、デジタルツール/教育の普及およびセクションが担う創造性の急増が推し進めた優秀な若手スタッフの流入、演出陣のコンポジットへの理解度の向上といったポジティブフィードバックの末、2010年代にことさら大きな注目を集めるに至ったコンポジットというセクションは、デジタル化によって表現の変革が進むマンガ同様、アニメとキャラクターイラストレーションとの関係を結びなおした、新たなビジュアルイメージを映像化しうるポテンシャルを感じさせる。

また「pixiv」と並び、現在の「描く読者」をめぐる(デジタル)環境として展示されているのが(高崎市美術館ではあいにく、展示スペースの関係で一部資料系の展示とともに省略されてしまっていたようだが)、マンガ作成用3DCGソフトウェア『コミPO!』や液晶ペンタブレットであるという。
日本のマンガは戦後、海外のアメリカン・コミックやバンド・デシネなどといったカラー主体でかつ一コマあたりの情報量が多いメディアとは異なり、白黒の絵を安い紙へ印刷することで制作コストを抑え、その代わりにコマ構成をベースにページ数を増やすという方向で市場を開拓してきた【注04】。

▼注04:そうした戦後における「ストーリーマンガ」の隆盛の裏には、戦前のメインストリームであった「コマ漫画」の周縁化というマンガ史的問題が潜んでいる。『テヅカVS四コマ――『あずまんが大王』は『まんが道』を殺したか』(2015年)所収の座談会「テヅカVS四コマ――ぼのぼの・あずまんが大王・ゆゆ式」(伊藤剛×やごさん×高瀬司)では、(マンガとアニメ、ゲーム、イラストレーションとのビジュアル面での具体的な影響関係の事例などにも触れつつ)四コマ論を通じてその歴史的歪みの原因を論じてもいる。

またマンガを白黒で描くことは同時に、カラー原稿に比べ作業量が少なくて済むため、――たとえば(日本のアシスタント制度を大きく越えたレベルで)分業化されたアメリカン・コミック(ライター、ペンシラー、インカー、カラリスト、レタラ―……)やバンド・デシネ(も、日本でも知られる一部の大作家を除いて、一般作では分業が目立つ)と比べても――作品に対して作家個人で担える割合が高く、結果、作品の作家性を(より)高めることに寄与することとなった。実際、海外の例を見ても、ピューリッツァー賞を受賞したアート・スピーゲルマン『マウス――アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語』(1980年~1991年)といったグラフィック・ノベル(定義は曖昧だが、例外の多い説明としては、作家性が高いアメリカの長編コミックス)には、白黒で描かれているものが多い。
それが3DCG技術がより身近になっていくなかで、WEBコミックの躍進(カラー原稿の印刷コストの解消可能性)、そして「コミPO!」(2010年12月発売)のような簡易的な制作ツールの登場などを直接的なきっかけとして、これまで漠然とイメージされていた個人制作のカラー/3DCGマンガの広がりが現実的な問題として立ち上がってきている。

そしてもちろん、この問題もまたマンガ論と並行し、アニメ論においても避けえないものだろう。3DCGによる表現や想像力の変革、色面の前景化、制作ユニットの構成――。他のメディア表現との連動や影響関係の網の目のなか――2000年代初頭の新海誠のデビュー時には熟し切ることのできなかった種々の可能性まで含めて――、この「『描く!』マンガ展」には、マンガ史のみならずアニメ表現の現在を問いなおす契機が満ちている。

※今後首都圏にも巡回してくると思われるが、高崎市美術館(2016年2月11日~4月10日)の次は豊橋市美術博物館(4月29日~6月5日)と発表されていることから、その機会は早くとも夏以降となるため、(とくに『おそ松さん』が放送中のいまを逃さず)早急に群馬県高崎市へと赴くべきだろう。
《高瀬司》

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