高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第5回 「傷物語」を聴く

連載・コラム

■ 高瀬司(たかせ・つかさ)
サブカルチャー批評ZINE『Merca』主宰。ほか『ユリイカ』(青土社)や各種アニメ・マンガ媒体への寄稿、「SUGOI JAPAN」(読売新聞社)アニメ部門セレクター、「Drawing with Wacom」(Wacom)などイラストレーター、デジタルアーティストによるLive Painting企画でのインタビュー・メイキング動画ディレクションなど。
Merca公式ブログ:http://animerca.blog117.fc2.com/

■高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第5回 「傷物語」を聴く

音楽家の菊地成孔と大谷能生は共著『アフロ・ディズニー――エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで』(2009年)で、「視聴覚の分断と再統合」の歴史を、発達学的アナロジーを用い論じることを通じて、20世紀文化とは何だったのかを問い直している。

ここで言う「視聴覚の分断」とは、視覚と聴覚が結びつく以前の幼児期をモデルに、20世紀初頭のトーキー以前の文化、サイレント映画とレコードに分かたれていた状態を思い描いてもらえればよい。菊地と大谷はそこを出発地点に、映画、オペラ、ポピュラー・ミュージック、ブラック・ミュージック、ファッション・ショーといった多様なカルチャーを縦横無尽に読み換えながら、(サブタイトルにもあるとおり)ディズニーのトーキー『蒸気船ウィリー』(1928年)『シリー・シンフォニー』シリーズ(1929年-1939年)、そして『白雪姫』(1938年)【注1】において極まる「ミッキーマウシング」――映像と音を過剰なまでに同期させる、映画音楽としては「ここにあるものは総ては自分に向かって意味を発している」(p.158)という全能感を与えるものとして、一般に悪名高いスタイル――において再統合を果たす(および再分断に挑む)歴史を検討してゆく。

2016年1月8日に公開された、〈物語〉シリーズ初の劇場公開アニメ『傷物語〈I 鉄血篇〉』(総監督:新房昭之、監督:尾石達也、アニメーション制作:シャフト)【注2】で鮮烈な印象を残したのも、この映像(視覚)と音(聴覚)におけるミッキーマウシング的な強同期性であった。

主人公の阿良々木暦とヒロインである羽川翼との一連の会話シーンに露骨(出会いのパンツに別れ際の手の振り)だが、全編にわたりおよそ劇伴はシーンと長さを共有し、アクションには旋律やカートゥーン(漫画映画)的な効果音が付帯する。もちろん、こうして強調されるミッキーマウシング性はいかにも新房=シャフト的な一種のパロディ、懐古趣味的なおかしみを狙った演出ではあるだろうし、音と映像の同期が生む力強さは吸血鬼=神というモチーフとの連環を想像させもすれば、大胆に省かれた原作を埋め尽くす阿良々木のモノローグの代わりにその心の動きを示す機能を担っているなどといった解釈を与えることもできるだろう。
とはいえ、そうして音楽と強く同期させられた映像の側はしかし、まるで反ミッキーマウシング的な振る舞いを見せてはいなかったろうか。

それというのも、あまりにも陳腐な指摘であるためタイプする手も震えているところだが、端的な事実の確認として、新房=シャフトの演出スタイルには、映画作家ジャン=リュック・ゴダールのそれが部分的に――メタ演出、ジャンプカット、ビビッドな色彩、タイポグラフィ、引用/パロディ等々――強く受け継がれている。
そして、『アフロ・ディズニー』において――菊地と大谷がジャズ・ミュージシャン【注3】として立てざるをえない「輪郭線=旋律線が強いことによって生まれる快楽であることがどうやら正しいとした時、反輪郭線=アンチメロディーといった反対勢力の力との拮抗、そしてその価値の歴史的やり取りはどのような姿を見せる」(p.185)のかという問いの向こうに――ミッキーマウシング=幼児的万能感に対し、視聴覚の分断の再発見=「無意識的に抑圧していた幼児体験の再認」(p.206)をうながす作家として見出されるのが、映像と音を分断し非同期的に(ないし独自の規則で同期させて)存在させるゴダールの映画であった。

『傷物語〈I 鉄血篇〉』(絵コンテ:尾石達也、演出:尾石達也・鈴木利正)の監督である尾石が手がけた過去のエピソードにも、このシネアストへのオマージュは多数発見できる。
TVアニメ『化物語』(2009年-2010年、監督:新房昭之、シリーズディレクター:尾石達也)において尾石が単独で絵コンテを担当したのは『化物語』第7話(演出:鈴木利正)と第15話(演出:尾石達也)のみだが、たとえばその前者において神原駿河邸へとはじめて訪れた阿良々木が目にする、部屋いっぱいに積み上げられた真っ赤な本(BL本含む)が、(薔薇族ともかけつつ、講談社BOXシリーズ本体の赤い装幀を起点に)ジャン=リュック・ゴダールの共産主義コメディ『中国女』(1967年)で室内に並ぶ真っ赤な毛沢東語録から発想されていることは疑う余地がない。

そしてそこからの連続性を強調するかのように、尾石の『化物語』につづく次回作となる『傷物語〈I 鉄血編〉』で明示的にオマージュを捧げられるのが、『中国女』と同年に公開されたゴダールの次回作である文明批判コメディ『ウイークエンド』(1967年)である。
このフィルムで起こる出来事を、視聴した誰もが納得するかたちで列挙すれば、車はとにかくは横転し(ちょうど直江津高校前の道路で帰り際に横転していた車のように)、人はとにかく血を流して横たわり(まるで地下鉄で横たわるキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードのように)、なかには生きたまま丸焼きにされる人物まで登場する(アバンで太陽のもとに身を晒した阿良々木や、それを助けにいく幼キスショットのように)。
より強引な対比も聞き流してもらえるならば、『ウイークエンド』のラストで妻が夫の人肉をおいしく食べるシーンと、キスショットによる阿良々木への吸血行為とを重ね合わせて読むことすらできるだろう。タイポグラフィにフランス語が使われ出していることも、両作の繋がりをより強く連想させる要素だ。

つまり『傷物語〈I 鉄血篇〉』の映像はその系譜として、音を従者として同期させる映像ではなく、対等な存在として融合する(ゴダール的ソニマージュ)ような佇まいを見せている――とはいえむろん、この見立てはゴダール作品との同期を軸とした限定的な構図でしかなく、あくまで『傷物語』を読み解くための一補助線に過ぎない。あるいはむしろ、『傷物語』と直接比較されるべきゴダール作品は、その曲調まで含めて、ミシェル・ルグランが音楽を担当した歌わないミュージカル風コメディ『女は女である』(1961年)における、サンプリング的メタ(ないしアンチ)ミッキーマウシングとでも呼ぶべき演出なのかもしれない。

だからこの場は、ゴダール的な悪ふざけで幕を引きたい【注4】。
ゴダールは『ウイークエンド』以降、『勝手に逃げろ/人生』(1979年)までの12年間商業映画からは離れ、その間、ジャン=ピエール・ゴランらとともに匿名的映画集団「ジガ・ヴェルトフ集団」(1968年-1972年、)およびアンヌ=マリー・ミエヴィルとともに設立した制作会社「ソニマージュ」(1972年-1982年)で政治的コメディを撮りつづけることになる。いわゆる中期ゴダールである。
であるならば。『傷物語〈I 鉄血篇〉』が『女は女である』から『ウイークエンド』という前期作品を下敷きにしたのだとすれば、『傷物語〈II 熱血篇〉』『傷物語〈III 冷血篇〉』では参照する時期をそれ以降に移し、その映像と音の同期性が徐々に破壊されていくなどという趣向がありえるのではないだろうか。FIN。


【注釈】
※注1:2016年の日本でディズニーのアニメ『白雪姫』を観るとき思い描いてしまうのは、7人のドワーフとニート化した松野家の6つ子の類比である(ドーピーなどもはや十四松にしか見えまい)。ポスト『おそ松さん』が溢れるだろう今後、『白雪姫』のドワーフたちを中心とした日常もの的リメイクが有効ではなかろうか(白雪姫を中心に描くとオタサーの姫ものになってしまうが、こちらはこちらでまた興味深い)。
※注2:『傷物語』シリーズのタイトルにある、機種依存文字のローマ数字1~3はアルファベットのI~IIIで代用する。
※注3:ジャズとアニメ音楽に関する映像と音の同期の問題をめぐっては、TVアニメ『坂道のアポロン』をテーマにしたトークイベント『ジャズメルカ vol.1』(大谷能生×類家心平×吉田隆一×吉田アミ×高瀬司、2012年)およびTVアニメ『LUPIN the Third -峰不二子という女-』をテーマにした『ジャズメルカ vol.2』(菊地成孔×大谷能生×吉田隆一×吉田アミ×高瀬司、2013年)で展開した。『Merca』シリーズに採録原稿もあるためそちらも参照されたい。
※注4:本稿を書きはじめる前までは、ここから、『アフロ・ディズニー2――MJ没後の世界』(2010年)にも参加しており、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか――アニメーションの表現史』(2013年)でも知られる人間行動学者・細馬宏通のリップシンクをめぐる議論を参照する予定であったが、紙幅の都合で仕方なく(実際には力及ばずだが)今後あらためて展開することにする。同様に、連載第1回の「ショット数/長」に関しては映画批評家アンドレ・バザンのオーソン・ウェルズ(およびリアリズム)論が、第4回の『響け!ユーフォニアム』をめぐっての「絵の映画」に対置される「映像」という比喩は映画研究者・渡邉大輔の〈映像圏〉というコンセプト(京都アニメーションにおいては、『AIR』第8話におけるカメラにかかる水しぶき、『涼宮ハルヒの憂鬱』の「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」、『らき☆すた』における「らっきー☆ちゃんねる」となぞったうえで、『響け!ユーフォニアム』におけるレンズ的表現もまたわかりやすく現実と虚構を不断に問い直させる手法だったろう)が、それぞれ密に関連したものだったが、こちらもあわせて今後の課題としたい。
《高瀬司》

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