映画評 『マイマイ新子と千年の魔法』 | アニメ!アニメ!

映画評 『マイマイ新子と千年の魔法』

レビュー 実写

文;氷川竜介 (アニメ評論家)

 私がこよなく愛する映画の1本に片渕須直の初監督作品『アリーテ姫』がある。一見してファンタジーの枠組みにあるような設定や道具立てを用意しながら、想像力豊かな少女の前にすべては相対化され、作りこまれたディテールから驚くべき世の実相が浮き彫りになる。それと同種の驚きと、生きることへの勇気を与えてくれる片渕監督最新作が『マイマイ新子と千年の魔法』である。
 題名の「マイマイ」とは主人公の額にある2つめの「つむじ」のこと。麦畑に自分だけのキャラクターを重ね、直角に交わる水路に千年前のイリュージョンを見る新子の想像力の象徴である。物語は表層的には、「ガール・ミーツ・ガール」のかたちで進む。新子が暮らす自然豊かな山口県防府の田園風景。そこに父の仕事の都合で都会的な少女・貴伊子が転校してくる。母親を亡くしたこともあり、周囲にとけ込めないカルチャーギャップの生み出す騒動や、さまざまな問題を乗り越え、新子と2人で打ち解けることが主軸だ。こう紹介すると、ありがちな児童文学を想像するだろうが、問題は「千年の魔法」である。
 物語の時代設定は昭和30年――つまり50年前だ。その世界に対し、千年前の平安時代に暮らす女の子(実は清少納言)が、新子の想像力を媒介に、不思議なかたちで交錯して影響を与える。こう書くとファンタジー映画のようにも聞こえるが、しかしこの作品の姿勢はしっかりとしたリアリズムに根ざしたストイックなものだ。生活描写、時代の空気は、驚くべきディテールの点描で裏打ちされて「たしかにそこにあった」という実感がわいてくる。アカギレをした少女の頬、ゴツゴツになった少年の指先、ガスで動作する冷蔵庫、ラジオドラマに絵物語……。

 高度経済成長期にこれから入ろうとする直前、生活はまだ質素だったが、その分、人と人の関わりあいは濃密だった。ならばこれは人情優先のノスタルジー映画なのか。あるいはロケハンできれいな情景をすくい上げた疑似観光映画なのか。それも違う。50年前と千年前、どちらも過去に間違いはない。ではもう今は消えてなくなってしまったのか。自分とは関係はないのか。そんなことはない。千年前も50年前も等しく発掘を行うシーンが、それを裏付けている。
 こうした反射神経的な決めつけを排除するデリケートさが、最大のみどころだ。確かにそこに存在したものであれば、それは自分の一部であろう。そして、どちらの世界も美化されてはいない。生も死も、きれいなものも汚いものも、子どもの視点で等価におかれ、すべてがひとつに包みこまれていく。そう気づいたとき、ふたつの世界を橋渡しする魔法の意味が明らかになる。その魔法は時を越えて、現代の自分にも染みわたっていく。
 この心豊かな気持ちで充たされる奇跡は、アニメーション映画だけが可能とするものだ。真剣なまなざしで対象を見つめ、何を絵にするのか、抽象化するのか描きこむのか、そうした取捨選択が価値観にまで昇華した結果なのだ。アニメーションとして練りこんだ表現だからこそ可能となる奇跡の時間を、ぜひとも映画館で体感してほしい。

『マイマイ新子と千年の魔法』 /http://www.mai-mai.jp/index.html
《animeanime》
【注目の記事】[PR]

特集