文;氷川竜介(アニメ評論家) なんと美しくはかなく、そして切ない映画なのだろうか。時が移ろい、何か大事なものが落日に向かおうとするとき、人の心にわきたつ想いの機微が凝縮されている。時代の大きな節目を迎えている今だからこそ、観られるにふさわしい作品だと、まず思った。 監督はシルヴァン・ショメ。2003年のアカデミー賞にノミネートされた『ベルヴィル・ランデブー』で知られるフランスのアニメーション作家だ。オリジナル脚本はジャック・タチ(1907~1982年)。『ぼくの伯父さんシリーズ』で高名な映画監督の未発表原稿が、娘によって最も映像化にふさわしい人物へ手渡されたという。それ自体が奇跡的な経緯から誕生した作品なのである。 タチ監督の本名と同じタチシェフという老手品師が主人公で、ストーリーは実にシンプルである。1950年代末、テレビが台頭してロックンロールが始まり、ショービジネスが大転換にさらされた時代。劇場で技を見せる芸人は食いつめようとしていた。老いて手元も怪しいタチシェフの手品だったが、一人の少女がそれを魔法と信じてついて来る……。 道中起きるさまざまな出来事を、ほとんどセリフなしにユーモアとペーソスを絶妙な配分で交え、甘辛く綴っていく。本作ではほとんどカメラを振らず、長回しの中でアニメーション作画の演技によって切々たる心情がわきたつカットが実に多い。なぜこれがアニメーションで描かれる必然性があるのか。 以前『ベルヴィル・ランデブー』で来日したショメ監督へ取材の機会があったとき、筆者はパントマイムに通じる表現力があるのではないかと質問し、それは正解だった。純化された動きで心が表現されることに共通性があるわけだ。タチ監督もパントマイムで舞台に立っていたという。ということは、『イリュージョニスト』こそ、まさにベストマッチのアニメーション作品なのだ。 この映画では、手品師の晩年を描いている。アニメーションの本質を突き詰めて考えていくと、手品に行き当たる。観客の視線を誘導し、トリックで見せる刹那の幻想(イリュージョン)。そのとき心の中にわきたつ驚きこそが、アニメの本質だ。という文脈を考えれば、「イリュージョニスト」をタイトルロールにした意味は大きい。劇中、生身を見せる舞台芸が電気を使う新しい芸術に追われて落日を迎える様が、主人公以外にもさまざまな芸人を介して描かれる。その構図は、手描きのアニメーションがCGアニメに追われて消滅しかけている諸外国の状況に重なる。 となれば、これは新旧が入れ替わる時代の節目を過去に託し、「いま」を描いた映画なのである。心の中で泣けて仕方がないのは、そのためだと、すぐに気づいた。ではジャンルの黄昏を描いているから悲哀に塗られた映画かと言えば、そうではない。絶望でもなく、取ってつけたような希望があるわけでもない。人生は順送りなのかという感慨がある。今またテレビが追われる立場になったことからも、それは自明だ。そして手品それ自体も消滅せず、役目を変えて継承されていく。 筆者は淡々とした筆致で描かれるクライマックスに「解放」を感じた。ラスト間際、いくつかのかたちで「解放」が描かれるが、珍しくはっきりと言葉になって示されたワンワードが、筆者の胸中でダブルミーニングに転じて激しく突き刺さった。これもまた今を象徴する言葉ではないか。繰りかえすが、その意味はふたつある。それは主人公タチシェフがラスト間際でとる行動からも自明だ。 観客がそれぞれ心中抱いたさまざまな想いを解き放ってくれるアニメーション映画。極上のワインのような多様で複雑で深い味わいを、ぜひ劇場の闇の中で体験してほしい。『イリュージョニスト』/http://illusionist.jp/
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」鬼太郎の父&水木が、“妖怪村”へ入村… 京都「東映太秦映画村」コラボイベント開催 2024.3.28 Thu 11:45 映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』と京都「東映太秦映画村」のコラ…