「崖の上のポニョ」 歪んだ物語が心を捉える | アニメ!アニメ!

「崖の上のポニョ」 歪んだ物語が心を捉える

 なんとも奇妙に歪んだ作品、『崖の上のポニョ』を最初に観た感想だ。1時間41分の物語は、映画が本来必要とするフォーマットをことごとく逸脱しているからだ。
 ないない尽くしと言っていいだろう。物語は山場らしい山場がなく、絶えずゆるゆると次の場面へつながって

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 なんとも奇妙に歪んだ作品、『崖の上のポニョ』を最初に観た感想だ。1時間41分の物語は、映画が本来必要とするフォーマットをことごとく逸脱しているからだ。
 ないない尽くしと言っていいだろう。物語は山場らしい山場がなく、絶えずゆるゆると次の場面へつながって行く。登場人物同士が持つ感情的な相克もなく、故に人間ドラマとは無関係だ。彼らは異形の存在である「ポニョ」をごく自然に受け入れる。疑問や疑念、議論の余地はない。魚の子「ポニョ」がいる。その子が人間になりたがっている。それが全てだ。

 最も奇妙なのは物語の中で起こる多くの物事に対して、ほとんど何も説明がされていないことだ。「ポニョはなぜ人間になりたいと思ったのか?」、「ポニョの父フジモトは、なぜ人間を止めたのか? どうやって人間を止めたのか?」、「月はなぜ地球に近づいてきたのか?」、これはほんの一部で数え出したらきりがないほど謎だらけだ。
 物語の説明をしないのは、宮崎監督の最近の数作品に共通する特徴でもある。例えば、「『ハウルの動く城』のハウルはなぜ、誰と戦っていたのか?」、「『もののけ姫』のアシタカにかけられた呪いは結局どうなったのか?」など、物語の重要な部分がしばしば説明されずに欠落している。

 これは宮崎監督が、物語の語り手として未成熟なわけでない。説明の欠落は、監督がこうしたこと説明する必要をあまり感じてないためである。つまり、監督にとって物語は、普通の意味で完成されている必要はないようだ。
 宮崎監督が既存の映画フォーマットを無視するのは、確信犯的である。実際に、宮崎監督は今回、エンディングクレジットにおいて、全ての関係者の肩書きを外し、アイウエオ順に並べたことをこれまでになかったことと誇らしげに紹介した。画期的であるが、映画のクレジットを資料として利用する人にとってはやや困った状態だろう。
 そうした行動には、監督の現在の映画の演出に共通する約束事への疑念があるのでないだろうか。

 ここで誤解されると困るのは、こうした常識外れの『崖の上のポニョ』が、面白くない作品だと思われることである。映画が映画で在りえるための様々な条件が失われているにも関わらず、『崖の上のポニョ』はむしろとても興味深いし、考えさせることが多い。子供たちにとっては楽しい作品だろう。
 であれば、『崖の上のポニョ』は、これまで映画が楽しくあるべきために必要とされてきたフォーマットが、本当に必要なのか?正しいのかを問いかけている。

 映画であれテレビ番組であれ、あるいは小説や絵画、音楽でもいい、それらが名作となりうるのは、他者とは異なる際立った個性が立ち上がって来る時だ。
 つまり、端正な作品は、良作になりえても、名作にはなりえない。むしろ、名作は常識破りの行動が、既存のフォーマットの美しさを打ち破った時にうまれるのでないだろうか。

 おそらくそれが、多くの映画ファンが、現在のハリウッドの大作エンタテイメント映画に対する違和感の源にある。そうした作品がエンタテイメントとしての面白さほどは心に残らないのも、ここに理由があるのかもしれない。
 確かに完成度は高く、面白い。しかし、計算し尽くされているが故に、何か同じ様な印象ばかりが残る。そして、あまりにも整然としていてひっかかりがないため、するりと抜けて行ってしまう。観客は映画に満足しながらも、関心は既に次の最新作に移っている。

 例えばディズニーやピクサーのアニメーションは、隙間なく計算し尽された完成度が高い。新作を観るたびにその出来に驚かされる。それはいわば、真円の真珠の魅力である。どこから見ても一様に素晴らしい。
 一方で、物語に歪みと隙間をあえて作りだす『崖の上のポニョ』は、バロック真珠の魅力でないだろうか。バロック真珠の魅力は、予想のつかない独特の歪みであり、観る方向、観る人によって異なって映る美しさである。そして、ほかに同様なものがない故に際立った存在でもあるのだ。
[数土直志]

崖の上のポニョ 公式サイト /http://www.ghibli.jp/ponyo/
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