世界の長編アニメーションの新しい景色を語るための言葉 「GEORAMA 2017-2018」/高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第11回 4ページ目 | アニメ!アニメ!

世界の長編アニメーションの新しい景色を語るための言葉 「GEORAMA 2017-2018」/高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第11回

アニメ批評家・高瀬司の月一連載です。様々なアニメを取り上げて、バッサバッサ論評します。今回は長編インディペンデント・アニメーションのフェスティバル「GEORAMA 2017-2018」について。

連載 高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言
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ここまでの2作は、いずれも重厚な作品であったが、他方でエンターテインメントに振り切った作品も目立つ。その代表が韓国のチャン・ヒョンユン監督による『ウリビョル1号とまだら牛 The Satellite Girl and Milk Cow』(2014年)だ。
スタジオジブリでインターンとして働いた経験があるというチャン・ヒョンユンは、『ウルフ・ダディ』(2006年)が広島国際アニメーション映画祭でヒロシマ賞を受賞した際に、その造形から『トトロ』のイミテーションとして批判を受けた過去があるが、作品を少しでも観てもらえれば、宮崎駿監督がこんなふざけた作品を世に問うとは到底思えないという点で、強烈な独自性も備えている。
公式のあらすじを読んでもらえれば説明は不要だ。「人工衛星のイルホは地球を観察するうち、ミュージシャンを夢見る大学生キョンの歌声に惹かれ、地球に落下。しかしキョンは魔術の力で牛になってしまい、狩りの対象に…! イルホは魔法使いのトイレットペーパーの助けを借りて女の子に変身、キョンを助けようとする」。まだら牛になった男が、人工衛星の女の子から乳搾りをされ、白濁した液体を放出しながら頬を染める描写は、この作品以外ではあまり観た記憶がない。カオスアニメ愛好家に判断を仰ぎたい一作である。

むろん、19本のなかから3本をピックアップしてほしいという依頼が、本当に3本で終わるはずはない。
4本目として挙がったのは、フィリピンのアヴィッド・リオンゴレン監督による『サリーを救え! Saving Sally』(2016年)である。完成までに12年を費やした本作のことを“ポスト『君の名は。』”と呼んでは、本来であれば先後関係の転倒になってしまうのだが、そのような時系列の入れ替え劇を許してしまいたくなるほどに、全『君の名は。』ファンおよび新海誠監督へ胸を張って推せる、ポップでキュートな傑作と言える。
なお、1月17日(水)19:30~の上映後には、石岡良治×高瀬司×土居伸彰によるトークショーも行われるそうなので、詳細な作品評はそこで語られるのかもしれないが、さしあたって土居は本作を「フィリピンというクリエイティブの伝統のない場所で、全世界のポップカルチャーを吸収しながら育った、一周回った世代が手がける、既視感のあるもののパッチワーク=二次創作的な作品」だと評した。

いま語られた「既視感」をはじめとしたいくつかの言葉は、確かに、通常であれば批判的な意味で使われがちなものではあるだろう。しかし同時に、本フェスティバル全体に通底する要素とすら言える重要な概念でもある。
小~中規模で作られるインディペンデント・アニメーションの場に、ハイ・クオリティな3DCG映画を生み出すバジェットは与えられない。そのため作品は自ずと、手描きか2DCGを用いることになる。そのとき、表現の参照項となりうるのが、「日本のアニメ」である。それゆえ今回ラインナップされたそれぞれの作品に、日本のアニメからの影響を見出すことは容易い。その文脈が一つ。

しかし、「既視感」の指すところはそれだけには留まらないだろう。『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社、2017年)に顕著だが、土居のアニメーション理論の中心は、「既視感(コピー)」「部外者(伝統や歴史をふまえない)」「「私」の輪郭をなくす(匿名化)」「空洞化/流動化」「世界と対峙しない」「なんの思想もイデオロギーもない」といった言葉に託された、強烈な肯定の力にあるといって過言ではない。
だからこそ、今回のフェスティバルはむしろ、ことによっては直情的な拒絶や鈍感さに晒されかねないだろう、こうした危うい言葉を用いてまで賭けられた批評性に、これまであまりピンと来ていなかった方にこそ観てもらいたいラインナップだと言える。
「GEORAMA 2017-2018」は、「長編アニメーションの新しい景色」との出会いの場であると同時に、それをとらえるための新しい言葉との出会いの場でもあるのだ。
《高瀬司》
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