藤津亮太のアニメの門V 第2回 「監獄学園」と「シモセカ」がこだわる“下ネタ”の世界

連載・コラム

『監獄学園』と『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』に共通するのは、「体液」へのこだわりである。

『監獄学園』は元女子校・私立八光学園に入学した5人の男子生徒が、のぞきの罪で懲罰棟=プリズンへと送り込まれたという設定だ。プリズンを管理する裏生徒会は厳しい懲罰に加えるだけでなく、彼らを退学にするためさまざまな罠を仕掛けてくる。
その裏生徒会副会長である白木芽衣子は汗かきという設定で、ことあるたびに効果音(年配の読者は作家・宇能鴻一郎の「じゅん」という擬音の使い方を思い出されたい)とともに全身を汗で塗らす。また、同書記である花はある行きがかりから、主人公キヨシに尿をかけて“仕返し”することにこだわり続ける。

一方、『下ネタ~』は性的な表現が完全に禁止された世界を舞台にした一種のディストピアSFだ。主人公の奥間狸吉は、ひょんなことから下ネタテロ組織「SOX」の構成員」となり、リーダーの華城綾女と下ネタテロを展開することになる。
ここではSOXと対立関係にあり、品行方正であるはずの生徒会長、アンナ・錦ノ宮がしばしば、性の暴れ馬となって見境なく暴走し、その挙げ句に体液を迸らせる描写を重ねる。
何か別の液体をそれらしく演出することでしか表現できない実写と違い、アニメの場合は、すべてそれが本物ということになるから、この2作の「体液」の存在感は並々ならぬものを獲得している。

よくWEBなどで「その下ネタはOKか」などといった記事を見かけるが、大半は言葉遣いとTPOの問題に終始している。それは単なるマナーの問題であって本質的な問題ではない。本当は「下ネタがOKかどうか」を決定しているのは、直截な言葉を使ってまでしなくてはならないその話がおもしろいかどうかにかかっているのだ。そして、おもしろいかどうかは人によって基準が違うから、「下ネタは難しい」のだ。

そこからいえば『監獄学園』と『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』はアプローチが違いながらも、ちゃんとアニメとしておもしろい出来栄えで、「体液」にフェティッシュを持たない視聴者にも、ギリギリのところで笑って見られるところに着地している。
このギリギリ感は、深夜アニメにおけるセクシー表現の多く見られる「見せすぎの裸身は放送に適さないので、やむなく規制を加えます」といった思想的に穏当なものとは似て非なる。

そもそもTVというのは、放送メディアの特性上、プッシュ型の常として(電源を切らない限り)日常に一方的に入り込んでくるものであり、番組が想定していない人間を偶然視聴者にしてしまう可能性が高い。そのためTVでは一定の表現に制限がかかる。「そういう表現を見たいと思っていない人が見てしまう」ことが起こりうるからこその対策だ。
このあたりが「見たい人が見る」メディアである映画や出版とは事情が異なるところといえる。だから「見せすぎの裸身」を隠すことそのものは至極当たり前な官僚的な振る舞いだし、それがはずれて美しい裸身が見えても、うれしくはあっても、さほどの驚きはない。

『監獄学園』と『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』の「体液」はこうした“規制”の対象ではないからこそ直接的に画面にでることが許されている。
デティールもたいしてない線の囲みが、色使いとシチュエーションだけで「体液」に見えてしまうこと。そしてそこに「TVで見てはいけないものを見てしまった」感覚が宿ること。つまりその「体液」を下品と感じることそのものが、アニメーションならではの巧みな記号操作の産物なのだ。そして、そこには「見せてよいもの」と「見せていけないもの」の境界線を揺るがす体験がある。

そう考えて『監獄学園』と『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』を見ると、2作とも「画面にうつるもの」と「画面に出せないもの」の境界をわざと行ったり来たりしていることがわかる。

たとえば『監獄学園』の白木芽衣子。バルーンのような胸を露わに誇示し、丸見えになるレベルで短いスカートをはいた芽衣子は、ストーリーとはまったく無関係に、バストや股間を意識せざるを得ないようなアングルから狙われる。当然、その画面上には規制が入る。ただその「白い光」なり「黒い影」は、ストーリーに関係ないセクシーなアングルがわざわざ選ばれたことの結果として入ったもののため、「わざわざ選ばれたアングル」に対してツッコミのような効果を持ってくる。

「見せてはいけないものを隠す」という作品の外部にあったはずのものがここでは「ツッコミのサイン」として作品の内部に取り込まれてしまっている。

『下ネタ~』のほうはもっとわかりやすい。同作の画面に規制が入る時、性的表現のすべてが規制されているという作中の設定が否応なく思い出される。そして、わざわざ規制が必要な絵を描いて画面に出しているという倒錯的なスタッフを想像してつい笑ってしまう。ここでも規制は、一種のツッコミとして演出の一部を担っているのである。規制をはずしてしまうと、この作品の根底にある「(規制されるのに)よくやるなー」という種類の笑いは減じてしまうはずだ。

このように2作とも「画面にうつるもの」と「画面に出せないもの」の関係が微妙に揺らぐシチュエーションがあり、それが笑いに繋がっている。

思えば2005年の『ガン×ソード』第17話「素懐の果て」の水上運動会シーンで、ロバのアイコンが女性キャラのあちこちをマスクながら乱舞したのが、現在の規制のスタイルにつながる嚆矢であった。このロバは、確かに演出の意図をもって画面の一部を構成していた。その後、こういう演出は減ってしまったが『監獄学園』『下ネタ~』はギャグ作品であるがゆえに、そのスタイルが全面的に採用されているのである。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》

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