藤津亮太のアニメの門V 第4回「ルパン三世」内面のない厄介な男、新シリーズで描くものとは

連載・コラム

『ルパン三世』は厄介だ。
1967年からマンガ連載の始まった『ルパン三世』は、今や、国民的キャラクターの一人である。最近もついに4回目のTVシリーズの放送が始まったばかりだ。
『ルパン三世』の何が厄介か。
第一に、ルパンというキャラクターが、(下手な物真似でもそれとわかるぐらい)明確な外面を持ちながら、ドラマを担うような複雑な内面を持っていないという点にある。

どうしてルパンは内面を持たないのか。
それは原作のモンキー・パンチの持ち味がそこにあるからだ。モンキー・パンチは、リアリズムに立脚するというよりは、ナンセンスやスラップスティックを好む作家だ。だから、原作の『ルパン三世』にはトリックのためのトリック(読者を驚かせるためだけに仕掛けられたトリック)が頻出する。そこでは、ルパンというキャラクターの内面は不要なのだ。ルパンが泥棒をする理由は存在せず、ただ、大胆な仕掛けの連続で読者を驚愕させていく。そうした徹底的な表層性こそが、マンガの『ルパン三世』の姿なのだ。
とはいえ、それでは映像作品にはならない。映像作品のキャラクターには、もうもう少しドラマを予感させる複雑な内面が必要だ。そこで1971年に初アニメ化された『ルパン三世』では、その内面を補われて描かれている。
アダルトなタッチのシリーズ前半は「アンニュイ」という要素がプラスされた。そこでは、人生に退屈した男が、倦怠を吹き飛ばして、生きている実感を味わうためにギリギリのスリルに身を任せるという方向でキャラクターが造形されている。

これが明朗な番組作りを求められ路線変更されると、演出家も交替し、ベースが「アンニュイ」が「ハングリー」に置き換わる。こちらは、おもしろそうなこと、刺激的なことに飢えていて、自らもそこに身を投じようとするキャラクター像だ。

その後のアニメが描くルパン三世像というのは、だいたいこの2つの要素のブレンドで出来上がっている。たとえばゲストの女性キャラに色目を使うことで事件に巻き込まれていく……という展開は、「おもしろがり」なルパン像だからこその導入といえる。とはいえこれも、幾度も繰り返されると新鮮味は失われ、形骸化した“お約束”にしか見えなくなってしまう。しかも、国民的キャラクターになって以降だと、「おもしろがり」の隠れ蓑の後ろに、お茶の間的なレベルでの義侠心や正義感が盛りこまれたりもするようになり、ルパンというキャラクターを新鮮に見せるのは難しくなっていった。

ちなみに『カリオストロの城』は、「おもしろいこと刺激的なこと」に飢えていたルパンが、今はもう枯れた中年になっているというキャラクター像を打ち出したところに特徴がある。キャラクターの加齢による変化を通じて、本来は表層的なはずのルパンを内面を持ったキャラクターとして描いたのだ。

内面を持ったキャラクターは、ドラマを内包しているが、それを描くことでキャラクターは変化してしまう。そこでキャラクターは役目を終えてしまうのだ。だから『カリオストロの城』のアプローチは“禁じ手”であり、だからこそラストの「完」の文字はとても重たいものに感じられるのだ。
逆に映画第1作(いわゆる『ルパンVS複製人間』)は、徹底的に表層的であることがルパンの本質であると描いた作品で、その点でも『カリオストロの城』と対照をなしている。

第二に厄介なのは、既にTVシリーズで200話以上、TVスペシャルも20本以上が作られているため、何をどう盗んでも、新鮮な驚きに結びつきづらい点なのだ。
しかも、変奏も自由自在、逮捕されてもすぐに逃げ出せるという展開をこれまでに何度も繰り返しているので、作品に緊張感をもたらすことも難しい(もちろんこれはお茶の間的な安心感と裏腹なのではあるが)。
TVスペシャルを1本ずつ追っていくと「新しい刺激を入れてなんとか新鮮味を出そう」という試みと「毎度お馴染みのルパン三世を楽しんでもらおう」というその間で揺れ動きながら続いてきたことがよくわかる。
では、現在放送中の新シリーズは、こうした「厄介さ」とどう向き合っているか。

放送された第4話まで見たところ第4シリーズのポイントの一つは「キャラクターの魅力の再発見」にあり、それによって厄介なシリーズを、新鮮に見せようと挑んでいるようだ。
たとえば第4話「我が手に拳銃を」は、次元がメインのエピソード。この話のミソは、クライマックスで次元が銃を撃たない、ところにある。次元の強さはその早撃ちの腕前にあるわけだが、それを見せずに強さを見せることで新鮮な印象を出していた。惜しむらくはちょっと相手が間抜け(銃を持っているのに、次元を円陣で取り囲んでしまった)な感があったのだが、「相手の弾道を見切ってかわす次元」というのは「早撃ちの名手」からも連想可能なアクションで、新鮮な印象があった。
第5話「魔法使いの左手」は、若きサーカス団員の視線を通じて不二子を語らせることで、こちらは彼女の魅力を改めて見せる内容だった。サーカスで行われるマジックのシーンなどで、ひまわりの花びらが散る効果が印象的に用いられていたが、それがラスト間際の不二子のシーンでも登場することで、不二子こそ一番の“マジシャン”ではないか、というミステリアスな含みをもたせてエピソードが締めくくられている。
今後、五ェ門と銭形にもこうしたスポットがあたると思われるので、どういう切り口で見せるのか楽しみだ。特に五ェ門は、なかなか扱いが難しいはずなので、どうなるのか興味が高まる。

そしてもちろん、ルパン本人の魅力を再発見するための仕掛けも十分用意されている。新たなライバルキャラを準レギュラーとして投入したのはそのためだろう。今回ライバルキャラクターは2人いる。
ひとりはレベッカ。イタリアを代表するスーパセレブでゴシップクィーン。個人主義で快楽主義の彼女は、いうなれば不二子の変奏だ。ルパンに比べて年下――小娘なポジションでかつ明確な緊張関係にあることで、不二子とは重ならない位置に置かれている。
もう一つはMI6のスパイ、ニクス。こちらは組織人で任務としてルパンと関わることになる。こちらは銭形の変奏で、人情課の銭形に対して冷酷という別種の味付けがされている。
不二子も銭形もシリーズの初期では、ルパンに対して手強い存在感があった。だが長期化の中でそこは次第に薄れてしまった。そうして固定化した関係をゼロからリセットするのが難しいと考えた時に、似て非なるキャラクターを投入して、人間関係に緊張感を持たせるというのはなかなか考えられたアイデアだと思う。
しかもライバルのキャラクターが立っていれば、視聴者の関心は、勝負の行方に向くので、盗みはあくまでも対決の舞台設定という範囲に留まることになる。

シリーズでこれから何回かレベッカとニクスはルパンと絡むだろう。もちろん勝負は最終的にルパンが勝つのだろうが、ポイントはその勝利の過程で、ルパンの価値観が提示され、それがレベッカやニクスの価値観を乗り越えていくかどうかだ。もし、そこの部分がちゃんと描かれれば、その時こそ、ルパンというキャラクターの魅力が再生する瞬間になるからだ。

ライバルを鏡としてルパンという男の魅力を改めて描き出す。第4シリーズはそういうシリーズになる予感を孕んでいる。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》

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