『竜とそばかすの姫』フィクションで描かれる「間違った正しさ」と、それがもたらす救い【藤津亮太のアニメの門V 第73回】 | アニメ!アニメ!

『竜とそばかすの姫』フィクションで描かれる「間違った正しさ」と、それがもたらす救い【藤津亮太のアニメの門V 第73回】

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第72回目のテーマは、『竜とそばかすの姫』です。 ※本記事では映画『竜とそばかすの姫』の重要な部分に触れています。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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※本記事では映画『竜とそばかすの姫』の重要な部分に触れています。


自宅の近所に小さな踏切がある。子供が幼いころには、保育園の送迎の時に手を引いて毎日渡った踏切だ。子供を連れて踏切を渡る時は少し緊張するし、いろいろと「起きてはほしくないこと」をシミュレーションしてしまう。

まず、もし自分の子供が踏切の中に取り残され、なんらかのトラブルで動けないとしたら、どうするか。これについては自分の中で答えは既に出ているから問題はない。

では、踏切に残されたのが、よその子供、知らない大人だったら、どうすればよいか。もちろん正解は「緊急停止ボタンを押して、踏切の中には立ち入らない」だ。だがそのように正しく行動して、しかし結果として不幸な結果に終わった時、自分はなんの後悔もないだろうか。少なくとも自分は生涯割り切れない気持ちを抱えることになるように思う。

その場にいる自分にしかできないことがあったかもしれない。にも関わらず、「正しさ」を理由に背を向けてしまったのではないかという自問。本当はただ足が竦んでいただけではなかったかという自責。選ばなかったほうの未来は分からないから、自問も自責も終わることはなく、割り切れない思いはずっと続く。

これについて、割り切れる、割り切るべきだ、という方はここから先は読まなくてもよいと思う。それはそれでひとつの生き方だ。ただ、ここからはその「割り切れなさ」と『竜とそばかすの姫』に関して考えていくので、割り切れる方には無縁の話である。

『竜とそばかすの姫』というフィクションは、この「割り切れない正しさ」と深く結びついている。

『竜とそばかすの姫』の縦軸をなすのは母親と子供の関係だ。主人公のすず(内藤鈴)は幼い頃、母親を亡くしている。母親は、よその子供を助けるため、増水した川に入って死んだのだ。その日以来、彼女の中には「どうしてあの時、母は自分をおいて行ったのか」という問いが重く沈んでいる。そしてすずは好きだったはずの歌を歌うことができなくなり、すずは高校生になった。

すずの母の行動は、現実的にいえば「間違っている」。救助の専門家が来るまでは素人は手を出さないほうがいい。作中でもネットなどですずの母の行動が否定的に語られている様子が描写される。しかしこの間違いが、この映画のポイントであり、フィクションのフィクションたる所以である。

すずに転機が訪れる。インターネット上の仮想世界「U」に登録することになったすずは、As(アズ。一種のアバター)に「ベル」と名前をつけ、「U」の中なら歌が歌えることを知る。そして、半年も経たないうちにベルは「U」で大人気の歌い手となる。そんな時、ベルが出会ったのが「竜」だった。

竜は「U」の嫌われ者。「U」の秩序を守ろうとする人々たちからは徹底的に狙われている。だが、ベルは竜のことが気にかかる。こうしてベルと竜の物語が始まる。

竜は「U」の中で次第に追い詰められていく。すずは、竜の危機を救うために、竜の正体=Asの主を探し当てなくてはならなくなる。そして偶然探り当てることができた竜の本体は、強権的な父に虐待されている兄弟の兄(恵)だった。動画の通話で話しかけるすず、しかし恵は、すずがベルだとは信じず、すずが伸ばした助けの手も振り払う。

恵と弟の知を助けるには、すずがベルだと証明しなくてはならない。そのためには「U」の中で、ベルの姿を脱ぎ去り、すずとして歌うしかない。そんなことをしたら、ベルとして得た称賛だけでなく、ようやく手に入れたすずとしての自己肯定感をまた失うかもしれない。だがすずは葛藤の末、生の自分の姿を「U」の中で晒すことになる。

すずとして歌いながら、彼女はようやく母の行動の理由を理解する。あの時、母は「その場にいる自分にしかできないこと」だから、子供を救いにいったのだ。ちょうど今、自分がそんな思いで竜=恵を救おうとしているように。

現実はしばしば「割り切れない正しさ」で人の前に立ちふさがる。人はその時、「間違った行動をしてでも相手を助けることはできたのではないか」と自問せざるを得ない。だからこそフィクションでは「正しく間違える姿」を描いてほしいと思う。

「割り切れない正しさ」が絶対的な真実だからこそ、あるべき現実を無視し、間違った(にも関わらず)正しい行動をとってしまうフィクションは救いとなる。正しい行動をしたことで人を救えなかった「割り切れない気持ち」の根っこにあるのは、「その場にいる自分にしかできないなら、なんとかしてあげたかった」という無念さだ。そしてこの無念は、フィクションで描かれる「間違った正しさ」によって救われるのである。

「割り切れない正しさ」は現実的だからこそ「割り切ればいい」に容易に変化してしまう。でも「割り切ればいい」になった瞬間に、すべての動機である「他利」や「やさしさ」の心はなくてもいいものになってしまう。だからこそフィクションの「間違った正しさ」が必要なのだ。フィクションが「間違った正しさ」を描いてくれるからこそ、現実で答えのない自責にさいなまれることこそが、他利ややさしさといった「正しさ」の存在証明であると、信じることができるのだ。現実の中の「割り切れない正しさ」とフィクションの中の「間違った正しさ」は正反対に見えて、深いところで結びついた一対のものなのだ。

映画の終盤、すずは恵たちを救うため高知から東京へ向かう。ここからは、すずが「その場にいる自分にしかできないこと」を実行する姿を際立てるため、現実的な段取りを考えるとかなり豪腕の展開になる。この終盤の展開が「現実に照らし合わせて正しい行いでない」ことに引っかかる人は多いようだ。だが、そもそもこの映画は序盤の母の行動を描いた時から、フィクションらしく「正しく間違って」いく姿を堂々と描いてきたのである。だからむしろ終盤のすずの行動は、母と同じ精神の実践として必然的といえる(とはいえ僕も児童相談所の扱いだけは、もう少しフォローがあるとよかったとは思っている。ただそうした欠点を長所と足し引きして“帳簿”をつけるようなこともしない)。

そしてすずの「正しく間違った行動」を通じて、本作の重要なポイントが浮かび上がってくる。それはそれは人をつなぎとめるものとしての「身体」だ。「U」のAsが当人の身体感覚を反映した“分身”であるという設定もここに繋がる。

東京に到着したすずは雨の中、恵と知と合流する。出会って互いをハグする3人。ここで大事なのは「U」で知り合ったベルが生身の身体を持って東京までやってきて、2人を抱きとめた、という事実だ。そしてそのハグを通じて恵はすずがベルだと改めて理解する。

一方、2人を連れ戻そうとした父親によって、すずの頬は傷つけられ、そこからは血が流れている。流れる血も拭わず、2人を守るため父親に向き直るすず。父親は、そんなすずを殴ろうとしても殴れない。

父親は、すずがそこに身体を持った他人としてそこに立ちふさがっているからことに圧倒されてしまうのだ。父親は子供を暴力で支配しているが、それは彼が、2人が独立した身体を持っていることを認めず、自己の延長物でしかないと思っているからだ。彼にとって家とは身体を持った他人とともに暮らす空間ではなく、己のエゴだけで満たされた空間なのだ。そういう意味で父親は、現実の世界に生きているようで生きてはいない。

だからこそ「身体を持った他人」であるすずが目の前に現れた時、対応することができず、ただただ「他人の身体」に圧倒されるばかりなのだ。

虐待されている子供は制度によって救われるべきである。しかし、それでは身体によって人は救われる、ということは伝えられない。父親の閉じた世界に一撃を加えることも、現実的な制度を前面に描いては難しい。すずの「その場にいる自分にしかできないこと」とは、「U」で抱きしめたのと同じ様に現実で兄弟を抱きしめることなのだ。この時、2つの世界は「身体体験」を通て繋がり、初めて等価で一体のものとして観客に示される。

ここへきて観客はようやく仮想世界「U」がなぜ「U」という名前で、身体感覚までリンクさせるという設定になっているかを理解することになる。もちろん設定的にはいろいろな理屈があるかもしれないが、「U」とは「YOU」なのだ

この「YOU」とは、複数の「あなたたち」ではなく、単数の「あなた」のほうのだ。「正しく間違ったとしても救いたい相手」としてのYOU。そして「わたし」と「あなた」を区別し同時に結びつけるのが「身体」なのだ。本作がネットの世界を肯定的に描いているとすれば、それは「あなたの存在が救いになるかもしれないただ一人の誰か(YOU)」と出会う可能性のある場所として描かれているからだ。

現実で人間が人間を救えることは少ない。制度のほうがはるかにちゃんと人を救うことができる。だが、制度の向こうにあるはずの「他利」や「やさしさ」を実感できるものとして指し示すには、どうしても「その場にいる自分にしかできないこと」を貫いて「間違った正しい行動」をしてしまうフィクションが必要となる。

すずは、そのような理由で堂々と「間違った正しい行動」を貫いたのである。


[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』、『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』などがある。ある。最新著書は『アニメと戦争』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》

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