「泣き猫」“猫をかぶる=仮面をかぶる”ことの解放感と危うさ【藤津亮太のアニメの門V 第61回】 | アニメ!アニメ!

「泣き猫」“猫をかぶる=仮面をかぶる”ことの解放感と危うさ【藤津亮太のアニメの門V 第61回】

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第61回目は、Netflix長編アニメーション『泣きたい私は猫をかぶる』 を題材に、「猫をかぶること=仮面をかぶる」を軸に考察する。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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この映画はネコにまつわる映画だ。

とはいっても本物のネコはネコなんてかぶらない。ネコはネコのまま、悠然と窓辺でまどろむだけだ。ネコをかぶるのは人間だけ。
だからこの映画はネコにまつわる映画というより、人間と猫をかぶること=仮面についての映画なのだ。

主人公の“ムゲ”はいろんな仮面をかぶっている。
父と母は離婚して、今家にいるのは父の恋人だ。ふたりはこのまま再婚するかもしれない。
一方、小学校のころ家を出ていった母は、これを機に、改めてムゲと暮らしたいと考えている。大人はみんな勝手だ。
中学で大好きなクラスメイトの日之出賢人にアタックする時がムゲにとって一番幸せな時間だけれど、賢人はいつもつれない。
ムゲはマイペースで楽しそうに生きているようにみえて、居場所はどこにもない。

ムゲには佐々木美代という名前がある。美代がなぜムゲになったかというと、あまりに行動が個性的過ぎて「無限大謎人間」と呼ばれていたのが、縮まってムゲになったのだと作中では説明されている。
でもその居場所のなさを見ていると「無下にされている」の“ムゲ”でもあるように思えてくる。

人間は誰も仮面をかぶって生きている。
どうして仮面が必要なのか。「私」というものはとても大きくて曖昧だから、仕事の時、遊ぶ時、それぞれの環境にあわせてフィルターをかけて自分の見え方をコントロールするのだ。
これがいわゆる「ペルソナ」と呼ばれるものだ。これは決して悪いことではない。

でも中学生はそこまで器用じゃない。
なんとか仮面をつけて居場所のなさをごまかしているムゲだけれど、本当は家や学校の人間関係を抜け出して「私」でいられる場所を欲している。
ロフトベッドの下の小さい空間は、数少ない彼女が自分でいられる場所だ。でもそんな“子宮”みたいな場所に中学生の彼女がずっといるわけにもいかない。

そんなムゲがお祭りの夜に出会ったのが“猫店主”。
この、でっぷりとして怪しげで、かつ男の声でしゃべる三毛猫という奇妙な存在は、ムゲにネコの仮面をくれる。その仮面をつけるとムゲは白い子ネコになることができるのだ。
ネコの仮面は、ムゲが「なりたい私」になれる時間を与えてくれた。

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ネコの仮面は家族や学校の間でムゲが無理やりつけていた「仮面=ペルソナ」とはまったく性質が異なる。
それは、解放されるための「仮面」だ。ペルソナに縛られるのではなく、ペルソナから自由になる仮面。それは仮面舞踏会の仮面と似たような役割を果たす仮面だ。

賢人は、ムゲが化けた子ネコを太郎と呼んでとてもかわいがってくれた。
ネコになって至福の時間を過ごすムゲ。ネコになったムゲは、賢人の背中を“ふみふみ”する。愛ネコ家の人ならよく知っていると思うが、“ふみふみ”はネコの仕草の中でも特にかわいらしいものだ。
“ふみふみ”には「うれしい気持ち」「甘えている仕草」「マーキング」などの意味があるというが、まさにそこにムゲの気持ちがよく現れている。

でもこの幸せな時間は、微妙に歯車がズレている。
賢人がかわいがっているのはムゲではなくネコの太郎。しかも、太郎とは賢人がかつて飼っていた愛犬の名前なのだ。そこにはやはりムゲはいない。

賢人は父がいない。彼は尊敬する祖父のように陶芸の道に進みたいと願っているが、母親は“大黒柱”の彼に進学校への進学を求めている。
だから賢人と母親は顔を合わせるとつい口論になってしまう。賢人もまた、居場所のない一人なのだ。祖父の工房は、そんな彼にとって心の避難所でもある。

だから突然出会ったネコの太郎は、賢人にとって、心を落ち着かせる“ライナスの毛布”のような存在なのだ。
賢人のほうも、ネコの太郎に甘えることで、自分がなかなか自分でいられない苛立ちをかわしているのだ。

このようにネコになったムゲと賢人ははっきりディスコミュニケーションの関係にある。
ネコの太郎=ムゲと賢人との幸せな時間はすごく危ういバランスの中で成り立っているのだ。
この不安定さは、とても中学生らしい。子供ではないが、まだ未来に何かを見つけられるほどではない年齢だからこその不安定感。
この映画はその不安定な様子を、とても優しい視線で見守っている。

「仮面」をつけたことで、自分の望む時間を手に入れたと思うこと、というのはムゲに限らずよくあることだ。
SNSに匿名アカウントがとてもたくさんあることを考えると、それはとても自然なことだ。自分を解放するための仮面をつけた人は、もしかすると「仮面=ペルソナ」をはずしたような解放感を感じているのかもしれない。

でも「仮面」をつけているのに、自分は「仮面」をはずしたのだと信じてしまうことはとても危険なことだ。
自分を解放する「仮面」が、そのうち本物になってしまって、現実に生きている私がどこかに行ってしまう。仮面をはずすことができなくなってしまう。

そして案の定、ムゲはネコになって戻れなくなってしまう。
中学生同士の淡い恋をファンタジックに語る本作だが、ムゲがネコになってしまう後半の展開は、そんな現実のシビアな部分を突いてくる。

本作は終盤、「行きて帰りし物語」の展開を見せ、ムゲと賢人はネコたちが暮らす「ネコの世界」に足を踏み入れることになる。そこにはムゲのように、かつては人間だったネコたちも暮らしていた。
元人間のネコたちは、それぞれに自分が人間世界のペルソナから逃げ出した挙げ句にネコになってしまった、と語る。そして自分たちのようにならないように、と人間になろうとするムゲを応援してくれる。

本作は猫モーションデザインという肩書のスタッフを置いて、猫の様々な動きのパターンを作るなどして、猫の動きを表現しようとしている。
またムゲが変身した太郎は、体の表面が起毛している感じを絵に加えることで、ネコのふわふわ感を表現している。

このようにネコの表現にこだわる本作だが、本作が最終的に表現しようとするのは、動物としてリアルなネコではない。本作に登場するネコは、まず第一に「人間を写す鏡」なのである。
そしてだからこそ、本物なネコであるきなこが、人間になろうとする気持ちに大きな意味がでてくる。きなこの存在は、人間は、自分の自由になりたい夢をネコに仮託しすぎていないかという、ネコ側からの異議申し立てになっている。

ネコの世界でなんとかピンチを乗り越えて、ムゲと賢人は現実に帰還する。それは「生まれ直す」と言ってもいいかもしれない。戻ってきた2人には、自分を解放する「仮面」はもういらない。
でもそれは、一度「仮面」をつけて怖い思いをしたからこそわかったことだ。でなければこんなにすっきりした気持ちで現実に還ってこれなかっただろう。ジュブナイルとしてとても正しいラストシーンだった。

自分を解放してくれる「仮面」は単純に“悪”と決めつけられるものではない。それは劇薬だし、劇薬だからこそ、それを必要とする人、必要とする気持ちはなくなることもない。
仮面を売るあの猫店主の鳴き声が、映画のラストを締めくくるのはきっとそういう意味なんだろう。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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