かぐや様、はめふら、かくしごと…春アニメから「最終回」のあり方を考える【藤津亮太のアニメの門V 第60回】 | アニメ!アニメ!

かぐや様、はめふら、かくしごと…春アニメから「最終回」のあり方を考える【藤津亮太のアニメの門V 第60回】

アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第60回目は、2020年4月期のアニメが続々と最終回を迎えたことに絡めてアニメの「最終回」について考える。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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4月期の終わりにあたって「最終回」について考えた。

そもそも「物語が終わる」というのはどういうことだろうか。
人が生きている限り人生は続く。それはキャラクターも同じだ。

にもかかわらず、ある時点でキャラクターのそれまでの人生をとりまとめ句点を打つ。
時には主人公が死亡し、別のキャラクターが物語を担うこともあるが、それでもやはりどこかで句点は必ず打たれる。

物語とは現実を参考に、コンパクトなモデルを作ることだ。一種のシミュレーション、思考実験といってもいい。
そうやって現実を単純化してわかりやすくすることで、世界の成り立ちを理解したり(神話)、世の不条理を説明したり(宗教)、他人の人生を垣間見て憧れたり教訓を得たり(昔話)してきた。

つまり物語の初期条件の中には、なんのために語るのかという「終わりを決定づける要素」が最初から潜んでいる。
だから、「終わることと」は物語にとって必須といってもいいほど重要な要素なのだ(もちろん例外はあるし、物語を支えているビジネス上の理由などで物語が全うできずに終わりを迎えることもあるが、そのあたりはここではおいておく)。

ここで話題はぐっと狭まって、TVアニメの話になる。

TVアニメは、1回20分強という、そこそこ短い時間の連続で構成されている。
このためひとつのシリーズ全体の大きな流れと、その中に位置づけられる各エピソードの小さな流れがあることになる。

大雑把にいうと、TVアニメがまだシンプルだったころは(それがどの時期までかは、作品によっても違ってくる)、シリーズ全体への大きな流れはさほど意識されておらず、「物語の設定」と「各話のエピソード」があれば作品は成立していた。
大きな流れの初期条件の中に仕込まれる「終わるべき要素」はないかあってもとても単純だった。むしろ趣向が凝らされたのは、各話のエピソードのほうだった。

だからこの時の最終回は、「最終回用の(いつものルーティンからはずれた)特別なエピソード」であればよかった。
だから視聴者に「作品/キャラクターとの別離」という形で特に強い印象を遺すこともしばしばあった。

一定の世代にとっては『魔法使いサリー』(1966)や『ハクション大魔王』(1969)の最終回がそういう作品だった。
逆に『タイムボカン』(1975)は、最終回といってもそれほどの特別感はなく、今の感覚からするとあっけなく感じるほどあっさり終わっている。
このあたりは海外に輸出するアニメは、途中からでも視聴者が見られるように、1話完結で最終回のあとにまた1話がはじまっても気にならないような作品が好まれていたということも背景にあるかもしれない。

しかし一方で、シリーズ全体で大きな流れを語ろうという作品も出てくる。たどるなら『ジャングル大帝』(1965)あたりが源流だろう。
しかしその大河ドラマ性が後世に大きな影響を与えたヒット作はおそらく『巨人の星』(1968)になるだろう。

『巨人の星』は主人公・星飛雄馬が少年から青年になっていく過程を描く教養小説的側面を持つ。だから各話の趣向も大事だが、同時に飛雄馬の人生という大きな流れをどうまとめるかも重要になってくる。
そして最終回は、敵チーム監督となった父・一徹と飛雄馬の対決という形にそのドラマを収斂させる。

飛雄馬は、父によって野球という呪いをかけられたキャラクターだが、自ら魔球を開発することでその呪いを内破し、自分という存在をつかもうとあがくキャラクターだ。
一方、一徹は、戦争によって野球を奪われた過去があり、それが息子に野球という呪いを課す原動力となった。
しかし飛雄馬が野球選手として成長していく過程と軌を一にして、彼にも監督という道がひらけ、一徹は「対息子」という形で野球を取り戻すのである。

そして最後の勝負が飛雄馬の勝利に終わった時、2人を対立させていた野球という呪いから自由になり、ただの親子として無言のうちに情愛を表現することになる。
原作とも異なり、制作過程でラストが書き換えられるといういきさつのある最終回ではあるが、「野球を失った男がその夢を息子に託すが、それは息子にとっては呪いでもある」という本作の初期条件を考えた時、実に見事な大河ドラマの「最終回」といえる。

現在のTVアニメの「最終回」は、この「1話完結型」「大河ドラマ型」を作品ごとのバランスで組み合わせて作られている。

シンプルな作品は「初期条件」にドラマではなく、ストーリーが終わる条件を織り込んでいる。
例えば『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』の場合は「破滅フラグを回避する」という目的が達成されて見事、最終回となった(第2期が決まったそうだけれど)。

原作の第二部までで最終回を迎えた『本好きの下剋上~司書になるためには手段を選んでいられません~』の場合は、主人公マインを支える様々なキャラクターの絆の部分に力点をいれて見せることで「一旦の締めくくり感」を演出した。
第1話の冒頭に最終回の重要場面を先んじて入れることで、導入部としてのつかみだけでなく、形式として「最終回らしさ」を際立たせるようにもなっていた。

1話完結型だったがいろいろな工夫が感じられたのは『かぐや様は告らせたい?~天才たちの恋愛頭脳戦~』だった。
こちらも原作をまだ残しての最終回なので、コレといった結論を打ち出すわけにはいかない。ただし本作はラブコメに分類される作品で、このジャンルは「終わりのための初期条件」に「恋愛の成就」があるからこそ、そこに至らないための「遅延」「迂回」が信条なのである。

だから本作は叙情的なエピソードで最終回らしい雰囲気を盛り上げた後は、いつも通りのドタバタしたエピソードを配置し、ラストは改めて主役2人の「恋愛頭脳戦」な関係という「初期条件」を示して終わる。
前に進めない時の最終回は、さまざまなエピソードの振り幅を踏まえたうえで、「初期条件」を忘れていないことを示すと、作品が「定位置」に収まった感じがして「最終回」らしい特別な感覚が生まれるのだ。

逆に、正統派の大河ドラマ型の最終回だったのは『BNAビー・エヌ・エー』だ。
こちらは、人間から突然タヌキ獣人となってしまった影森みちるが、獣人たちが自治を行うアニマシティへと転がり込むことから物語が始まる。人間というマジョリティーでいた時には見えなかった、差別されている獣人たちの世界。
そうした体験が彼女の中である種の考えとしてまとまった結果、最終回の「何が普通かは自分で決めるし、どう生きるかも、何が美しいかも自分で決める!」という啖呵に至るのである。

本作は悪役が悪役らしくシンプルであったため、エンターテインメントらしく風通しのよいラストを迎えるが、獣人が人間からヘイトの対象になっているという安易に解決できない状況は大きくは変わらない。
そういう意味では、むしろ割り切れない「余り」がもっと多くてもよかったのかもしれない。

だが一方で「余り」は、観客を迷わせることも多い。ただこの「迷い」があるからこそ、作品が、キャラクターがずっと観客の中で生きるということもある。
このあたりの「余り」や「余韻」の感情をどこまで残すのか、という点は「最終回」につきまとう永遠の課題だ。

そして「大河ドラマ型」と「1話完結型」のいいところをうまく組み合わせたのが『かくしごと』の最終回だった。
本作はマンガ家の父・後藤可久士と、その娘・姫の物語だ。自分がマンガ家であることを姫に隠そうとする可久士のドタバタと、原作者らしいシビアな“マンガ家あるある”が本作の大きな柱となっている。
だからドラマ的な意味では「初期条件」に終わるべきポイントは含まれていない。

そのかわりに、ポイントは各話に少しずつ最終回への「引き」を入れているところにある。この「引き」は18歳になった姫が登場し、そこでは彼女と父・可久士の関係がかつてのようではなくなっていることがほのめかされる。

その疑問が一気に解き明かされるのが本作の最終回というわけだ。
1話完結型らしい「特別な最終回」をそのエピソードの中だけで仕込むのではなく、シリーズを通じて仕込んでいるのが特徴といえる。
しかも「最終回」が描かれたことで、可久士と10歳の姫は過ごした時間が、とても特別なものであったことも、言外に示されるのであった。

「最終回」というものがいかにして「最終回」として説得力をもって存在しうるかは、まだいろいろ考えられそうだ。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。
《藤津亮太》
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